上忍とは 音もなく 臭いもなく 智名もなく 勇名もなし
世界遺産シリーズがまだ途中なのですが、息子ちゃんが「忍者めぐり行きたい」と言うので、今回は忍びの里 伊賀・甲賀─リアル忍者を求めて─にしました。
そもそも忍者とは
忍者の発祥には諸説ありますが、聖徳太子の隠密、御色多由也(おいろ・たゆや)に端を発する職能集団で、鎌倉時代くらいには現在で言う「忍者」の形になり、江戸時代くらいまでは確かに実在したのだそうです。
隠密なので諜報活動をするのが仕事なので、必ずしも戦闘に強いとは限りません。
忍術流派には伊賀・甲賀・風魔・黒脛巾組など多種多様にありますが、やはり最も有名な伊賀・甲賀が聖地なのかなと思います。
ハットリくんやバジリスクの影響で伊賀と甲賀は敵対関係にあるイメージがあり、実際に敵対する事も普通にあるのですが、基本的に彼らが敵なのか味方なのかは雇い主の立場によるものであり、忍者個人個人には何の意見も無かったのではないかと思います。
伊賀
伊賀流忍者博物館では、実際の忍者道具が展示してあり、忍者ショーも見れます。
忍者屋敷といっても仕掛けだらけではない
忍者の家と言ってもそうそう仕掛けだらけではなく、普通の忍者ならあっても一つか二つなのだそうです。
その仕掛け部分を移築して一つの忍者屋敷にしたのがこの博物館なのだとの事。
忍者のショーでは実際の忍者の武器を実演してくれて、手裏剣の投げ方や実際の威力を目の当たりにできます。
忍者の武器はまず鎌
忍者の武器と言えば手裏剣、忍者刀がイメージの強いところですが、主な武器は鎌で、理由は簡単、みんな農民だから鎌を持っていても目立たないから、との事。
グルカ族のククリは元々農具で先端部が重く、斬るのに適したもので現在も使われますが、忍者の大鎌も同じ事が言えますね。実際忍者の大鎌は日本刀並みに斬れるそうです。
反面忍者刀の方は、直刀かつ仕込みが多くて斬撃には向きませんので、不意打ちで突き殺すのを目的に使ったかと思います。
またヌンチャクも使うとの事です。ヌンチャクと言っても空手(中国武術)のヌンチャクは脱穀用具から発生したものですが、伊賀での説明では馬の轡を武器にしたものとの事でした。
そして火薬
忍者の秘密と言えば火薬の調合なのだそうです。
火薬を見たことのある人の少ない時代では、まさに妖術だったのでしょうね。
変化の術とは
実際の七変化とは、ようするに変装の事で、他国に入りやすい山伏や、顔を隠せる虚無僧などに好んで変装します。
これを七方出と呼び、
「虚無僧」「出家」「山伏」「商人」「放下師」(大道芸人)「猿楽師」「町人」の7つが主に使われます。
伊賀から甲賀へ移動してみます
バジリスクでは薬師寺天膳が結構簡単に走って移動していましたが、実際に行ってみるとかなり遠く、中継駅の柘植までタクシーで行ったら5000円くらいかかって半泣きになりました。
いい紅葉でしたけどね。
甲賀
甲賀流忍術屋敷
甲賀五十三家の筆頭、望月家の本物の忍術屋敷を観光用にしているそうです。
さすがに仕掛けだらけです。
ちなみに甲賀流といっても単一の流派ではなく、甲賀郷士の忍術体系を総称して甲賀流と呼ぶのだとか。
ここでも手裏剣が投げれました。
伊賀のほうでは隠し部屋には入れなかったんですが、甲賀の方では自由に入れ、多くの子供達が喜んで遊んでいました。
甲賀忍者は薬使い
前段で伊賀忍者は火薬使いと書きましたが、甲賀忍者は薬使いとの事で、薬の行商をしつつ情報収集をしたのだそうです。
その名残りで甲賀発祥の製薬会社もいくつかあるのだとか。
忍者設立の会社ってなんかいいですね。
忍者のいなくなった理由
基本的に傭兵であった忍者は、徳川幕府の成立と共に仕事が無くなっていきます。
島原の乱の頃には、個々はともかく集団としては全盛期ほどの情報網を敷けなかったようです。
江戸に付いて行った忍者もいるようですが、世の中に必要とされず、甲賀忍者の仕事とは言えないような門番だったようで、やがて彼らは下級武士や前述の製薬業、花火師などの仕事を選び消えて行きます。
しかし忍者ってロマンですよね
忍者めぐりしてみると、けっこう海外の観光客が来ていて、日本人の子供より熱心に説明を聞いていました。
中にはキッチリ正座している外国人の人も見かけました。
伊賀・甲賀という地名だけでインパクトの大きい観光資源があるので、もっと観光化頑張れば経済効果も伸びるんじゃないのかなと思ってしまいます。
梅木千世でした。