浜松城

木原吉次について語ろう

うちの母方の先祖である木原吉次についての記事です。歴代記事の中で上位のアクセス数になっているので、随時追記しています。

江戸っ子は昭和20年より前の戸籍謄本が取れない

ことのきっかけは祖母が亡くなり、相続のため祖母の戸籍を集めていました。(ちなみに喪主です
3代住んでの江戸っ子と言いますが、
代々の東京住みしか知らないと思う事が一つ。東京の人は昭和20年以前の戸籍が取れないって知ってましたでしょうか?
理由は東京大空襲で燃えてしまったからでした。
昭和20年以前の戸籍謄本が取れませんでしたが、東京大空襲で戸籍謄本が燃えた、という下の告知書があれば不動産でも銀行でも相続は問題ないとの事です。

一部分だけ載せますが、僕が戸籍謄本を取ろうとするとこのような書面が来ます。

東京大空襲

Wikipediaだとこのような焼け野原ですので、無理もない事です。

木原吉次について

さて、せっかく調べましたので、今日は木原吉次について語ろうと思います。

ちなみに、名字からわかるように僕は直系ではなく、おそらく本家本元の木原さんという人がどこかにいると思うのですが、ここでは見聞きした事を述べます。

木原吉次の筆跡
木原吉次の筆跡

戦国時代以前、遠州山名木原村(現在の静岡県袋井市木原のあたり)に鈴木七郎衛兵吉次という人がおりました。 その前は和歌山の熊野権現の神主だったようです。

袋井市木原
袋井市木原

穂積氏の神主

僕は人に話す時に大工の側面を強調しているのですが、鈴木氏は饒速日命を祖とする神主の家系です。
ちなみに饒速日命は「千と千尋の神隠し」のハクのモデルでは?と言われています。

今川隷属時代からの松平家大工

入新井町誌」(大田区山王のかたに教えていただきました)によると、吉次の祖父の吉勝は今川家に仕えていましたが、後に隠遁していところ松平清康に召し出され徳川(松平)の家臣となりました。その子の吉頼は天正二年に現在の袋井の海蔵寺に葬られたとありますので吉次の徳川従軍後も木原に残った事になります。
この時点で大工の要素があったか確かなことはわからないのですが、遠州木原に地頭程度の禄をもらっていました。
さて吉次。主君家康が桶狭間の戦いの後に独立してしまったので、そのまま徳川家の家臣となります。

浜松城築城の総奉行になる

浜松城
浜松城

元亀元年(1570)、徳川家康は弱体化した今川領内に侵攻し、木原吉次に命じ引馬城を取り囲むようにして浜松城を築城して東遠江侵攻の基地として居城を岡崎よりこの地に移したとの事です。
その吉次は、家康から在所の「木原、木原」と呼ばれていた事から、天正三年の5月にとうとう木原姓を賜ったとして、以降は木原吉次を名乗ります。改姓については天野康景(家康の小姓出身・後の甲賀忍者の統率)に申し出ているので、天野氏が上司だったのかも知れません。木原家はけっこう甲賀忍者と縁があります。
僕は戦闘員ではなく城大工と聞いていましたが、検索してみると工兵もしたようです。
両国あたりには今も宮大工を先祖とする木原家があります。

ちなにみ吉次の建築した浜松城は、石垣も天守閣もありませんでした。

三方ヶ原の戦い

徳川家康

そもそも浜松城というのは、武田信玄に備えるための城ですので、三方ヶ原の戦いに突入します。
ところが浜松城は特に信玄に襲われる事は無く、野戦で敗北してしまいます。

戦で負けた場合の工兵の仕事

味方が敗戦した場合、工兵は殿軍が敵を防ぐための防御陣地を作りながら退却するのが仕事になります。
特に騎馬軍団の有名な武田信玄から逃げているので、退却路に馬防柵や塹壕を作るのが主な仕事になったと思われます。
この時に夏目吉信(夏目漱石の先祖)など多くの同輩が戦死してしまいます。

高天神城の戦い

袋井市歴史文化館のHPに「『徳川家康公と袋井ゆかりの武将・寺社』展示解説」というパンフレットがあるのですが、こちらによると武田勝頼と家康との間で戦われた高天神城の戦いで武田の家臣を木原権現の神主の木原吉次が斬った事になっています。しかしこれはちょっと時期がおかしく、浜松城の総奉行を吉次が行ったとすると高天神城の戦いの時期にはとっくに徳川家大工頭のはずです。あるいは村の親戚と一緒だったり、単に変装していたのかも知れません。

袋井市パンフレット
静岡県袋井市パンフレットより引用

木原大念仏

その武田の斥候が祟りを起こしたという事で、木原村では木原大念仏という念仏踊りを行い、現在では袋井市の無形文化財に指定されているそうです。

一度機会があり、この木原大念仏を見せていただきました。
最初は阿波踊りのようなものをイメージしたのですが、奉納舞のようなお祭りでした。

木原大念仏
誰とでも仲良くなる息子ちゃん

江戸時代

天正18年(1590年)、徳川家康の江戸に入府に従い江戸に来た吉次は、遠州木原の領地と引き換えに(家康が元の領地を秀吉に取り上げられてしまったので)新井宿村四百四十石を領地として与えられ、木原氏は代々の幕府の大工頭になります。現在の大田区山王、駅で言うと京浜東北線の大森あたりになります。

「近世大工の美学」参考

 最初の町奉行は、三河・遠江・駿河の奉行も務めた天野康景があたり、次に板倉勝重。今でいう都市計画には、普請奉行が福島為基、地割奉行が田上盛重。そして作事奉行は木原吉次が親戚の鈴木長次を遠江から呼んで補佐を頼み、大手前に常普請小屋を設けて指揮をしています。町の外は、関東郡代の伊那忠次が任じられました。
 木原吉次は三河武士でしたが、浜松の城から三河の大工3州6人衆の上に立ち普請方奉行をつとめ、戦時においては工兵隊を指揮したのでした。小牧・長久手の戦いでは、家康の親衛隊として活躍しています。道中、木原配下の目印として松明を二つ掲げ、一つは浜松大工棟梁の清左エ門が、他の一つは木挽棟梁浜松七左衛門がもち、隊列を飾ったといいます。大工棟梁10人・木挽棟梁2人に、それぞれ従者を10人ずつつけ、総計120人でした。行軍のために道を整備し、橋を架け、陣小屋の設営をし、柵をつくり、敵に攻め入る井楼をくみ上げるなど、戦闘に大工は大変重要でした。
 木原吉次は、駿府の作事方において彼の配下に以下の者を置いています。御被官(役人)20人、材木奉行(木材の調達)、縄竹奉行(建築資材の調達)、残り物奉行(建築雑品の調達)破損小細工奉行(建築の修理、小規模の造作)、勘定役(積算)16人、同心小頭(現場管理)70人、さらに大鋸頭、鍛冶頭、左官頭とあり、彼らは籠城する小田原城攻めにも従い、あの有名な「一夜城、石垣山」も彼らの活躍であった事でしょう。

名古屋昔話 Nagoya old tales 第二巻/全六巻 (高橋 和生)

上の引用にあるように、 吉次は家康とともに江戸に入り、大工棟梁、官位は内匠として江戸城の改修工事や日光山の建築を行います。

江戸城のWikipediaの天守→慶長度天守の項を見ると、作事大工が吉次となっています。(吉次は譜代に近いですが三河者ではないので、誰か直してくれませんかねー・・・)

木原家の屋敷は、今の暗闇坂から熊野神社の裏手までの高台で木原山と呼ばれ、この付近は、将軍の鷹狩など狩場ともなっているのだそうですよ。

ちなみに、僕の木原の親戚はだいたい墨田・江東・江戸川あたりにいます。おかげで戦災に遭うわけですけども。

国土交通省のHPに、作家の荒俣 宏先生の書かれたページがあります。 これによると、江戸の都市計画にあたり、

最初の都市設計家だった木原吉次らは、たくさんの人間が自然に集まってくるような大きな入れ物をつくりました。これは京都とか大阪には存在しなかった特色です。そのために、まず道路整備をしました。あのような田舎に、当時京都の都大路の朱雀門の通りよりも広い18メートルの道をつくりました。また、食糧供給のために埋め立てをしたり、川の流路をつけ替えたり、さまざまな大工事を実行しました。これらは、全く新しいタイプの都市づくりで、失敗するかどうかはわからないけれども、とりあえず積極的に実験したのです。

とあります。 荒俣先生のお言葉ではありますが、これだと木原家が江戸の都市計画を主導したように取れるので、少し冷静に読んでみましょう。

まず家康の意思として、吉次は京都みたいな防御機能の無い首都よりも、鎌倉のように首都防衛を念頭に置いた都市を構想しましたのではと思います。ちなみに仮想敵は毛利、島津など西国大名であって、海外は念頭から外れます。 そのため、日光東照宮など霊廟的な建物は西勢力に対した時に背後に隠す位置にあります。 ところが木原一派は大工とはいえ武士なので、経歴からして土木と建築の知見しか無いので、都市計画にあたっては住民の生活に関わる上水道や埋め立てを専門にする人たちが必要になり、遠くから呼び寄せる事になります。その中には後述する親戚の鈴木家などもいたようです。

そんなわけで、吉次たちは武臣派の首領みたいな立場で江戸を建てたんじゃないかと思います。

彼らは最初はとりあえず、新世代の首都らしく何でもかんでも目新しい物を大振りに作ってやろうぜ、みたいに考えていた気がします。 
これが終わると引退した吉次は、家督を孫に継がせ、安心したのか鎌倉に隠遁してしまいます。
そして慶長十三年十二月十一日、七十一歳で病没。上屋敷のある麹町近く(当時)の貝塚青松寺に埋葬されました。青松寺は近隣に上屋敷がある大名旗本の多くの墓所になっています。

ところで荒俣先生、僕は帝都物語は子供の頃から大好きでしたねぇ……。

以降の木原家

吉次の子の重次が夭折してしまったため、孫の重義を吉次の養子という事にして二代目継がせましたが、これも病弱で、吉次の死の4年後の慶長十七年に死去してしまいます。墓所はやはり青松寺。そして若年で後を継いだ三代目の木原義久は、日光の東照宮などの徳川関連の建造物の造営に携わります。他にも浅草の浅草寺などの寺院もあります。 ちなみに、木原家は代々名前に”よし”が付けられます。字は”吉”でも”義”でもよいようです。

木原義久の事績
馬込にある萬福寺に木原義久の墓

三代目義久は家康の死後に日光東照宮の建築に携わりますが、余った木材をもらってきて所領に運び、荒れていた熊野神社を再建します。現在の大田区大森にある荒藺ヶ崎熊野神社です。多分、木原家の祖先が熊野権現の神主だった事から縁を感じたのではないでしょうか。
ちなみに、埼玉県の仙波東照宮も義久の設計になります。
義久は若年で継いだながら実績を残し、都合七百五十八石まで領地を広げます。
この義久も寿命は短く明暦二年に48歳で病死。ここまで来ると笹田源吾の祟りでしょうか。

新井宿義民六人衆事件

事件は義久の次男で、四代目の木原義永の代に起きます。
1675年(延宝5年)11月23日 重税(村高936石)の重税に苦しんでいた新井宿村の百姓 酒井権左衛門(38)平林十郎左衛門(55)鈴木大炊之助(47)間宮太郎兵衛(39)酒井善四郎(53)、間宮新五郎(47)の6人は、幕府に年貢減免の直訴を試みました。直訴は問答無用で死罪なので、村のため死の覚悟で望んだ義挙でしたが、江戸馬喰町武蔵屋捕らえられ、当主の義永は麹町の上屋敷で六人衆を斬首してしまいます。
六人衆は今も大森の熊野神社のすぐ下にある善慶寺に義民として祀られています
木原の方では木原大念仏が行われていますが、大田区の方では6人の義民に感謝を表す新井宿義民六人衆報恩感謝祭のパレードが行われているそうです。
大田区のHPによると義民六人衆の事績をたどる講演会なども行なっているそうです。

資料を以下に抜粋します。

彼ら六人の行いは義挙と称えられる勇気ある行いで「願いは聞き届ける代わりに殺す」が直訴ですが、彼らの誠心が形になるのはもう少し後になります。

桃雲寺再興記念碑

その五代目の義永が、吉次が再興した桃雲寺というお寺に「桃雲寺再興記念碑」という木原家の事績を書いた石碑を残しています。これは 江戸初期の記念碑としては様式が珍しく、 また当時の新井宿近郷の様子や旗本の領地支配の実態を知るための資料とされ、大田区の文化財に指定されているとの事ですが、木原家屋敷の敷地は今は不明で、この記念碑は数度の移設の後に、現在の根岸地蔵と呼ばれるあたりに移動されました。

桃雲寺再興記念碑
桃雲寺再興記念碑

家康に常に木原、木原と呼ばれていたエピソードなどが書かれています。この石碑は郷土博物館の管轄のようです。

桃雲寺再興記念碑の現代語訳

2021/04/05:現地の方にコメントをいただきましたので、一部修正しました。

天下普請

稲葉稔先生が、吉次の甥にあたる鈴木長次が主人公の小説を書かれています。吉次は17歳の長次を「天守を作らせてやる」と木原村から連れ出す重要な役どころです。頻繁に登場するのですが、武田と戦っていた場面など戦国絵巻的に面白い部分はチラリとしか出てきません。ちょっと残念ですね!

江戸時代の木原家

1697年(元禄10年)
木原因幡守清白が相模国鎌倉郡で300石を加増されます
ところが

1852年(嘉永5年)
木原白照は鎌倉郡大船村を召し上げられてしまい、大船は桜田門外の変で有名な井伊直弼のお預かりになってしまいます。なぜ召し上げられたのかは不明なのですが、代知として常陸国河内郡内の鍋子埜原新田および宮渕を与えられたようです。

明治維新以後

幕府の相給地(旗本木原領・増上寺寺領)は、明治政府に大名屋敷と同じように収公され、地租改正により国有地となり民間に売却されたとあります。

ともあれ版籍奉還で山王にいられなくなった木原家は、方々に移住します。うちの祖母の木原家は本所、今で言う墨田区です。

なお、義民六人衆事件のほうですが、
1869年(明治2年)新井宿村はようやく一村限りの地改めが行われ、村高936石から703石2斗5升8合に改められました。これにより六人衆の御霊が安んぜられたかどうかはわかりません。

太平洋戦争当時

祖母がもういないので詳しくは知りませんが、
支給の軍刀を「こんなん刀じゃねえ」と自前の日本刀をサーベル拵えにして持っていったそうですので、戦争には行っているようです。
祖母は千葉へ疎開していたと聞きます。
戸籍謄本を調べると、本籍地は東京都ですが、出生地は千葉県でした。
祖母によると、疎開先では東京から来た疎開家庭はイジメられたそうです。

2023年に大田区の自治会の新年会にお伺いしてきたのですが、(左上に僕がいます)
その席上で、身の上話のために戸籍謄本を持っていたのですが、
(名字が違うので木原の話をするときは持ち歩いているのです)
「お婆さんの出生地が千葉なんですが、親戚でもいたのですか?」
というご質問をいただいたので、戸籍謄本を改めて読みますと、

大関家
戸籍謄本

祖母の母が千葉から嫁に来ていまして、この人が僕の曾祖母になります。
曾祖母の家系が木原家よりかなり古い事に気づいたので、これから曾祖母をめぐる旅を始めようと思いますが、木原の話ではないので別の機会に。

戦後

本家本元の木原さんは存じませんが、祖母の父は墨田区でうなぎ屋をやっていました。
現在はやっていませんが、親戚には今もうなぎ屋さんがあります。(会話した事はないですが)。たまたまその家の孫という人と飲み屋で一緒になった事があり、その時は
「自分の家はもともと宮大工」
と名乗っていました。

祖母の話

元は祖母の葬儀がきっかけなのに吉次ばかりなので、祖母に少し触れます。
吉次の没後298年後の子孫、利吉という人の娘が祖母になります。
若い頃は日劇ダンシングチームにいました。ちなみにパートはラインダンスだそうです。

僕の生活費も学費も全て祖母が出してくれました。

うちの祖母

余談ですが、木原家は皆名前に吉か義がつくと上で述べましたが、祖母の兄は子供が小さい時に病気をしたため、画数を変えたかったのか、吉のつくはずの名前を変更し、昭和風の普通の名前にしてしまいました。400年通して来たのに。。。
こないだ祖母の納骨の時に会ったのでこの話をしたところ「今度自分も木原に行ってみたい!」と言っていましたので、機会があれば一緒に行ってみたいと思います。

静岡の木原関係の資料も見せていただきました。

後日談

後日談と言えるかわかりませんが、もともとこれらは小説の題材を探していた時に祖母が亡くなり、戸籍謄本を集めている間に「これは面白いのでは」と取材を始めたもので、

・KADOKAWA様 第13回野生時代新人賞三次選考で落選。
・郁朋社様 第23回歴史浪漫文学賞三次選考で落選。

の結果となりました。
知人のプロ作家によると、「最終まで残れれば後は運」との事なのですが、今回はそこまで力及ばずという事にはなりました。とはいえ得るものも多い旅になったかなと思っております。
作家でない素人が取材するのに「子孫です」というのは結構なアドバンテージだと思って始めたのですが、それはそれで資料も過大に多くなり、書いている間に想像と違う資料が出てきたりしました。そのうち改稿して違う賞に出したいと思っています。

梅木千世でした。

4 comments for “木原吉次について語ろう

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