元新撰組の篠原泰之進は維新後、以下のように手記に書いたとされる。
──モシ賊ト相戦ハバ、敵ハ多勢、我ハ小勢ナリ。然リト雖モ甲冑ヲ着テ路頭ニ討死セバ後世ソノ怯ヲ笑フ可シ。
その時、藤堂平助はこのように言った。
「俺は新選組には結盟から居たが、七人で四十人にむかって斬り込むなどはかつて無かったな」
もっとも、切り込む相手がその新撰組なわけだが。
すると服部武雄が、
「七人で少なすぎはせぬ。我々の死体をくれてやりにゆくのだ。七つ死体が並んだところで戦さはおわる」
服部は新撰組内でも沖田永倉斎藤の三強に劣らない達人である。
永倉新八は藤堂を逃がそうとしたが、藤堂平助ともあろう者がよほど焦ったのか、後ろから平隊士に斬られて絶命したという。
この時死んだのは皆が一流の剣客であったそうで、彼らより剣力が劣る者は早々に脱出した。強いが故、さっさと逃げる事ができなかったのだろう。
翌日、このあたりに人間の指がパラパラと落ちていたと言う。
墓は京都市東山区 戒光寺
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