鎌倉
鶴岡八幡宮
言わずと知れた鎌倉の象徴、武士の神
八幡神とは応神天皇 、比売神、神功皇后 (応神天皇の母)。
河内源氏3代目の八幡太郎義家が修復を加えたものを、後に鎌倉を本拠地にした後裔の源頼朝が現在の位置に移し改めて岩清水八幡宮から勧請したもの。
鶴岡八幡宮 舞殿
例年鎌倉祭りでは静の舞という舞踊が奉納されます。
これはその昔、頼朝に捕らえられた静御前が舞を所望され、義経を思って舞ったのを起源に、八幡宮で毎年奉納されます
吾妻鏡には「まことにこれ社壇の壮観、梁塵ほとんど動くべし。上下みな興感を催す」
と記されたそうです
残念ながら、今はオンラインのようです
永福寺跡
読み方は「ようふくじあと」
源頼朝が奥州攻めの後、源義経や藤原泰衡など奥州合戦の戦没者の慰霊の為に建てた寺院。
平泉中尊寺を模した二階大堂が建てられたが消失。
近隣の地名「二階堂」の語源。
鎌倉市二階堂209
大蔵幕府跡
富士川の合戦の後、鶴岡八幡宮の近くにある大蔵郷に建てた館がこちらの大蔵御所。
治承四年に完成し、将軍の政務が行われた。
現在は小学校。
由比ヶ浜
頼朝に捕らえられた静御前は義経の子供を産んだが、男の子であったため、産まれてすぐ由比ヶ浜に沈められた。
悲しんだ静御前は由比ヶ浜に入水して死んだとも、義経を追って奥州へ去ったとも伝えられる。
若宮大路
頼朝はおそらく京をまね、移転後の鶴岡八幡宮と由比ヶ浜を結ぶ大通りを作った。これが鎌倉の中心となる大通りの若宮大路。そのまた中心を段葛が通る。
鶴岡八幡宮 段葛
頼朝が北条政子の安産祈願のために造営を始めたとされる。 曲がりくねっていた参道を由比ヶ浜まで直線にしたもの。 北条時政が携わったという。 低湿地のため、一段高い道が段葛で、特定の地位や高貴な人のための通路。 実は段葛に樹木が植えられたのは明治ごろ。 ちなみに、段葛は鶴岡八幡宮の境内なので私道扱い。
北条時房邸跡地
時房は美形で蹴鞠が上手く、実朝死後の北条体制で連署という鎌倉幕府ナンバー2の役職についた。
やたら宴会をする。
屋敷跡は八幡宮のすぐ近く。
源頼朝の墓
建久9年、相模川にかけた橋の完成祝いに出掛け、その帰り稲村ガ崎で落馬してしまい、それが原因で翌年に53歳で亡くなった。現在の塔は江戸時代に島津家によって建てられたもの。 北条時代の始まりの地と言える。北条義時墓
鎌倉市西御門にある。 源頼朝と北条義時の慰霊を行った持仏堂、または法華堂の跡。明治時代に廃仏毀釈により堂が破壊され、石段の上は原っぱで源頼朝の墓とされる石塔や白旗神社が建てられているのみ。
三浦氏を供養するやぐら
13人の一人、三浦義澄は鎌倉追放に加担し、梶原一族が討たれた3日後に病没した。
息子の平六義村の子、つまり孫の泰村は承久の乱でも活躍した。しかし安達景盛の策謀で鎌倉で挙兵して北条軍と安達軍に大敗。追いつめられた泰村は妻子一族郎党と共に鎌倉の法華堂で自害した。
畠山 重忠邸跡
もともと平氏に従っていて、頼朝の挙兵に当初は敵対するが、やがて臣従して治承・寿永の乱で活躍し有力御家人となる。
頼朝没後は北条時政に謀反の疑いをかけられて討たれた。
屋敷跡は小町通りから八幡宮に行く途中、八幡宮バス停そば。
畠山 重保邸跡
重保は重忠と北条の娘との子だったが、時政に謀反を企てたという疑いをかけられ由比ガ浜に呼び出された所を、三浦義村によって討たれた。重保が殺されたことを知らずに鎌倉へ向かっていた重忠は、北条義時率いる重忠討伐軍に攻められて討死。これにより畠山氏は滅亡した。
邸跡の傍に墓がある。
鎌倉 鶴岡八幡宮の大銀杏
源実朝が甥の公暁に暗殺された際に公暁が隠れていたとされる銀杏の跡。 平成22年に強風で倒れてしまったが、根から新しい芽が出て丁寧に育てられている。寿福寺
臨済宗建長寺派。鎌倉五山第三位。
源頼朝の父・義朝の居館があった所に建っている。
頼朝が亡くなると北条政子が義朝ゆかりの土地に創建した。
墓地には源実朝、北条政子の墓と伝えられる五輪塔がある。
建長寺
鎌倉五山第一位。
鎌倉幕府第5代執権の北条時頼を開基としており、現在も北条家の家紋の入った瓦を使用する。
日本で初めての禅専門道場。
けんちん汁の語源との説もある。
半僧坊大権現
後醍醐天皇の皇子、無文元選禅師は中国天台山で禅を修行したが、帰国の途上で台風に遭遇した。その時禅師を助けて、後に弟子になった半僧の異人=天狗を祀る寺院。
天園ハイキングコースの入り口でもある。
稲村ヶ崎
新田義貞が鎌倉攻めで通った岬。
本来馬の通れるような道は無いが、新田義貞か海に刀を投げて祈ったところ塩が引き、道ができたという。
稲村ヶ崎は通常、砂浜の無い岬であり、ここの水面が下がり馬が通れるほどの道になるというのは、相当に特殊な気象現象があったと思われる。
周囲の砂浜も岩石質で、裸足で歩くのも困難。
宝戒寺
かつて「小町亭」と呼ばれ、代々の執権が暮らしていた屋敷があった。
新田氏の鎌倉攻めで北条氏滅亡した後、後醍醐天皇の命令で足利尊氏によって北条氏歴代執権屋敷跡に建立されたのがこの宝戒寺。
東勝寺跡
かつて関東十刹の一つであった名刹の跡地。
鎌倉に攻め寄せた新田義貞の軍に対し、北条高時ら北条氏一門が当寺に篭もったが、成すすべもなく自ら火を放って自刃した。この時ともに死んだ者は、合わせて870人余にもなるという、
鎌倉幕府終焉の地。
この近くに北条高時の腹切りやぐらと呼ばれる洞窟があり、近隣で最も有名なホラースポットとなっている。
やぐらと呼ばれているが洞窟。
以前北条の末裔で俳優の高倉健さんが卒塔婆を出して供養していました。
鎌倉幕府終焉の地。
鎌倉宮
明治2年創建。鎌倉で最も新しい神社 祭神の護良親王を幽閉したとされる土牢が現存する 護良親王は後醍醐天皇の皇子で鎌倉幕府の打倒に貢献し、征夷大将軍になったが、 足利尊氏との対立により足利方に捕えられ、建武2年に殺害された
京都
京都 五条大橋
言わずと知れた牛若丸と弁慶が出会った橋 実は現在は位置が違う。 また、義経記によれば2人の出会いは清水観音の境内となる。
神泉苑
義経と静御前が初めて出会った場所とされる。 船遊びなをするため、桓武天皇に造営された広大な庭園。 空海が善女龍王に雨乞いをして日本中に雨を降らせたことで知られる。伊豆
頼朝・政子腰掛け石
静岡県熱海市の伊豆山神社にある石のベンチ。流人の貴族頼朝と、北条政子がここで逢瀬を楽しんだとの事です。
この神社で源氏再興、打倒平氏へと誓いを立てたのなら、平家にとって厄介な神社ですね。
和歌山
高野山 金剛三昧院
源頼朝を弔うため北条政子が創建し、後に源実朝の遺骨も納められた
この多宝塔は政子が頼朝、実朝を供養するために建てたもので、高野山においても最古の木造建築物。
国宝、および世界遺産の一部。
西国愛染霊場の大トリに相応しい。
兵庫
兵庫県 須磨区 須磨寺
寿永三年の一ノ谷の戦いで、源義経が首実検した時に座ったとされる松。
平敦盛の笛もここに展示されている。
信長で有名な能の敦盛の題材。
兵庫 生田の森
一ノ谷の戦いは平家の拠点、福原京を二方面から攻める戦略で、一ノ谷の反対側の戦線がこの生田の森。現在は森と言っても原生林というわけではなく、小規模に残るのみ。
義経はさらに三手目で鵯越から少数の奇襲をかける戦術で平家に勝利した。
岩手
中尊寺
奥州は金の産地で中国を通し海外にも知られていた。
中でも有名なのが中尊寺金色堂で、まさに黄金の国ジパングの趣きがある。頼朝が欲しくなっても無理も無い。
平泉 中尊寺 弁慶堂
本来は愛宕宮と称し、主に義経、弁慶に関する文物が収められた小さめのお堂。
鎌倉彫の弁慶立ち往生像などが祀られています。