小説

大関氏について語ろう

落選しました

小説野生時代を見てこのブログに来た人はほとんどいないと思うのですが、木原吉次について語ろうに書きました通り、木原吉次を題材とした小説をKADOKAWA様に応募しており、選考中は二次まで誌面に名前が残っていました。
その後に、いくらか改稿して、今度は郁朋社様に応募していたのですが、これも先日結果通知が郵便で来まして、

第13回野生時代新人賞三次選考で落選
第23回歴史浪漫文学賞三次選考で落選

という結果になりました。
主人公の木原吉次は徳川家康の大工という基本設定上、ターニングポイントにしていた浜松城まわりのネタが大河ドラマとモロかぶりしてしまいます。
これでは二番煎じ扱いは必至、というわけで木原吉次ネタは当分お蔵入りとしまして、別の題材を探す事にしました。

ぶっちゃけ吉次じゃなければ、もはや誰でも一緒なんですが、
たまたま大田区山王の新年会で、
「お婆さんはなぜ出生地が千葉なんですか?」
というご質問をいただいていたので、戸籍謄本をひっくり返して回答を探しつつ
誰か面白い人いないか・・・と探していたところ、

いたよ。

千葉県北部、旧国名で言うと下総の大関家から木原家に嫁に来た人がいました。
「黒羽藩主大関家だったら面白いな」
などと思いつつ、さっそく本人の戸籍謄本を取れるだけとって調べてきました。

そこでいろいろ調べてきて、まだ纏めきれてないんですが、今日は大関氏の話です。

那須与一の家臣

大関氏は常陸国(栃木県)小栗庄大関郷の発祥(?)で、元は那須家の家臣でした。
那須家というと弓の達人の代名詞、那須資隆与一だけが圧倒的に有名なんですが、那須家の衰退後も家臣の大関は拡大し、家系が古いだけに支族が多くなっています。

別に家系図を作る事が目的ではないので、僕の血統の大関さんがどういう系統かという事に大した意味は無いんですが、

主な系統で
1.徳川旗本の大関家
2.黒羽藩主大関家
3.黒羽藩士で名前をもらった大関家
4.旗本でも大名でもない郷士の大関家
などがいます。
このうち、1は断絶。2は記録がはっきりしており現在東京にいます。3は地域が違います。
そして下総は本貫地の常陸の大関郷までに、国を跨ぎますが距離はかなり近いので、国を跨いでの移動ができなくなる江戸以前に土着したまま動かなかった郷士かな?という結論になりました。
明治以後かつ戸籍法の制定前に移動してたら追えないのですが・・・。

那須氏について

大関の前に、まず主筋になる那須氏の話から始まります。
藤原北家 藤原道長の孫、宗資が下野国那須郡に住み、那須の藤原すなわち須藤宗資と名乗りましたが、後に子の資隆が地名から那須資隆と名乗りました。
この那須資隆の息子が11人いて、11男すなわち十に余る一人が有名な那須与一です。誕生地は那須氏の居城だった栃木県那須郡那珂川町の神田城との事です。
那須氏は平治の乱では源氏に味方して敗れ甲斐国稲積庄に逃げ隠れ、後に平氏寄りの姿勢を取ります。
治承4年(1180年)の源頼朝の挙兵では、十郎為隆と資隆与一が源氏、残り9人の兄達は平氏にと分かれて戦います。
与一が源氏についた理由としては、与一が那須岳で弓の稽古をしていた時に那須温泉神社に必勝祈願に来た義経に出会って味方する約束を交わした、という伝説があるそうです。
そして元暦2年(1185年)の屋島の戦いで武功を挙げ、「余り一」の11男でありながら当主を継ぎます。
他の兄達のうち、四男の福原久隆、十男の為隆は後述する那須七騎の家祖として発展していきますが、与一本人は子供の無いまま京都で出家してしまい、後に20代前半で病死。墓所は京都東山の即成院と伝わります。
那須家は兄の五男、資之が3代目那須氏当主となります。

千葉の武士と言えば平将門

さてようやく大関の話になります。
大関氏は、元をたどると常陸小栗氏の派生となります。
話はいきなり遡り、天慶の乱で平将門が滅亡した後、将門のいとこ(?)の平貞盛が甥の維幹を養子として、常陸国を与えました。
この維幹は常陸大掾(官職)に任じられ、以後子孫は大掾の職を世襲し、やがて維幹の直系は大掾氏を名乗るようになります。
この大掾氏から8つの支族が分かれるのですが、このうちの小栗氏は、維幹の孫である大掾重義が常陸国で自立した家との事です。

やや余談ですが、1183年に源頼朝の叔父、志田義広が頼朝討滅に挙兵した野木宮合戦のとき、小栗氏は大掾氏に従って義広方についています。鎌倉殿の13人に少しだけ出てましたね。

さて本題。
那須氏の娘が小栗頼重に嫁いだとき、那須氏の家臣で角田氏の女性が侍女として常陸に同行しました。
その後、侍女は小栗七郎に嫁いで与一(後の大関高清。那須与一とは関係なし)を産みました。
小栗七郎は常陸国小栗御厨庄大関郷に住んでいたことから、家名を大関と称しましたので、この大関与一高清が大関氏の祖となります。
大関氏は戦国時代に同じく那須家家臣の大田原氏から政略の後に養子を送り込まれた事から、大田原氏の背景である武蔵七党(平安時代から武蔵にある武士団の一派)を名乗るようになりました。

南北朝時代

高清から6代後の大関家清の時代、足利尊氏と弟の直義が南朝北朝の代理戦争として戦う「観応の擾乱」が勃発します。
この内紛で主家の那須氏「薩埵峠の戦い」で尊氏側で参戦したため、大関家清も出陣し武功を挙げ、その功によって尊氏から那須郡松野、大桶の二邑を与えられました。

しかし家清は文和四年(1355)、続く神南の戦いで那須資藤に従って参戦し討死するなど憂き目も見ますが、家清の死後は増清が継ぎともかく黒羽(栃木県北東部)を本拠地に拡大しました。
その後応永年間に白旗城を築き、ここを大関氏の本拠としました。

那須七騎

この頃から大関家は、主家の那須氏と譜代の蘆野氏・伊王野氏・千本氏・福原氏、外様の大田原氏と合わせて那須七騎と呼ばれるようになりました。主家である那須の配下の6騎ではなく主家を合わせて7騎というのがポイントで、彼らは自立心が強く、しばしば主家に反抗する事もありました。

戦国時代

戦国時代になると、大関宗増は、那須氏が内紛を起こしたので讒言などで拡大を図りますが、これを逆手に取られて大田原氏の大田原資清に政争で敗れ、大田原の子の高増を世継ぎとして養子に迎えることになります。(毛利元就が吉川、小早川を掌握したのもこの方法です)大関高増は実家の大田原氏と協力して主家であるはずの那須氏を凌ぐ勢力を築き、秀吉の小田原征伐では那須氏を見限っての参陣で那須家が改易される中で所領を安堵されました。この高増の三男の資増は関ヶ原では東軍に付き、黒羽藩の藩祖となって、この家系は明治維新まで存続します。

梅木千世でした。

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