黒蜥蜴 / 江戸川乱歩(4)

恐ろしき謎

 早苗さんはひどくやつれていた。誘拐されたままの銘仙の不断着が、クチャクチャにしわになって、髪もみだれるにまかせ、おびただしいおくれ毛が、青白い額をかくし、頬もげっそり落ちて、ひとしお高く見える鼻の上に、つるのゆがんだ目がねが、みすぼらしくかかっている。
「早苗さん、お気分はいかが? そんな所に立っていないで、ここへお掛けなさいな」
 黒衣婦人が、自分の長椅子を指さしながら、やさしく言った。
「ええ」
 早苗はいわれるままに、素直に二、三歩前に出たが、黒衣婦人の掛けているその長椅子をはっきり意識すると、幽霊でも見たように、ハッと恐怖の表情を浮かべて、あとずさりをはじめた。
 人間椅子、人間椅子。三日前に、この中へとじこめられた恐ろしい記憶が、まざまざと浮かんでくる。
「ああ、これなの。この椅子が怖いの? 無理はないわね。じゃ、そちらの肘掛椅子にするといいわ」
 早苗さんは、いわれた椅子におずおずと腰をおろした。
「あんなに、あばれたりなんかして、すみませんでした。もうこれから、なんでもおっしゃる通りにいたしますわ。ごめんなさい」
 うなだれたまま、かすかに詫びごとをいうのだ。
「とうとう、あなた観念なすったのね。それがいいわ。もうこうなったら、素直にしているほうが、あなたのおためなのよ……でも不思議ねえ、きのうまであれほど反抗していた早苗さんが、急に、こんなにおとなしくなるなんて、何かあるの? 何かわけがあるの?」
「いいえ、別に……」
 女賊は鋭い眼で、うなだれている相手を、刺すように見つめながら、次の質問に移った。
「北村と合田から聞いたんですがね。あなたの部屋で人の声がしたっていうのよ。だれかあなたの部屋へはいった者があるんじゃないの? ほんとうのことをいってくださらない?」
「いいえ、あたしちっとも気がつきませんでしたわ。何も聞きませんでしたわ」
「早苗さん、うそいってるんじゃないの?」
「いいえ、決して……」
「…………」
「黒トカゲ」は早苗さんをじっと見つめたまま、何か考えこんでいる。異様な沈黙がしばらくつづく。
「あの、この船、どこへ行きますの?」
 やっとしてから、早苗さんが、おずおずと尋ねた。
「この船?」女賊はハッと冥想からさめたように、「この船の行く先、教えて上げましょうか。あたしたちは今、遠州灘を東京に向かって走っているのよ。東京にはね、或る秘密の場所に、あたしの私設美術館がありますの。ホホホホホ、早苗さんにお眼にかけたいわね。それがどんなにすばらしい美術館だか……そこへ、あなたと『エジプトの星』を陳列するために、こうして急いでいるのよ」
「…………」
「汽車に乗れば、そりゃ早いにきまっているけれど、あなたという生きたお荷物があっては、あぶなくって陸路をとることができなかったのよ。船なれば、少し遅いけれど、まったく安全ですからね。早苗さん、これあたしの持ち船なのよ。『黒トカゲ』のお姐《ねえ》さんは、ちゃんと蒸汽船まで用意しているのさ。驚いたでしょう。でも、あたしにだって、こんな船の一艘ぐらい自由にする資力はあるのよ。あたしたち、陸路をとれない時は、いつもこの船を利用していますの。こういううまい道具がなくっちゃ、その筋の眼を、長いあいだのがれていることなんぞ、思いもおよばないわね」
「でも、あたし……」
 早苗さんが、何かしら強情な様子をして、上眼使いにチラと黒衣婦人を見た。
「でも、どうだとおっしゃるの?」
「あたし、そんな所へ行くの、いやですわ」
「そりゃ、あたしだって、あんたがすき好んで行くなんて思ってやしない。いやでしょうけど、あたしはつれて行くのよ」
「いいえ、あたし、行きません、決して……」
「まあ、大へん自信がありそうね。あんたはこの船から逃げ出せるとでも思っているの?」
「あたし信じていますわ。きっと救ってくださいますわ。あたしちっとも怖くはありませんわ」
 この確信に満ちた声を聞くと、黒衣婦人は何かしらギョッとしないではいられなかった。
「信じているって、だれをなの? だれがあんたを救ってくれるの?」
「おわかりになりません?」
 早苗さんの口調には、解きがたき謎と、不思議に強い確信がふくまれていた。かよわいお嬢さんを、これほど強くさせたものは、一体全体何者の力であったか。
 もしや、もしや……黒衣婦人はみるみる青ざめて行った。
「ええ、わからないこともありませんわ。言ってみましょうか……明智小五郎!」
「まあ……」
 早苗さんは虚を突かれたように、かえって狼狽を感じた様子であった。
「ね、当たったでしょう。あなたの部屋でこっそりあなたをなぐさめてくれた人。みんなはお化けだなんて言っているけれど、お化けが物をいうはずはない。明智小五郎でしょう。あの探偵さんがあんたを助けてやると約束したんでしょう」
「いいえ、そんなこと」
「ごまかしたってだめよ。さあ、もうあんたから聞くことは、何もないわ」
 黒衣婦人は物凄い形相をして、スックと立ち上がった。
「北村、この娘を元の通り縛って、猿ぐつわをはめて、あの部屋へとじこめておしまい。そして、お前もその部屋へはいって、内側から鍵をかけて、もういいというまで見張りをしているんです。ピストルの用意はいいだろうね。どんなことがあっても、逃がしたりしたら、承知しないよ」
「よごさんす。たしかに引き受けました」
 北村が早苗さんを引きずるようにしてつれ去るあとから、「黒トカゲ」もあわただしく廊下へ飛び出して行ったが、ちょうどそこへ、船内の捜索を終った潤一事務長が帰ってくるのとぶっつかった。
「あ、潤ちゃん、お化けの正体はね、明智探偵なのよ。明智が、どうかしてこの船の中に潜伏《せんぷく》しているらしいのよ。さ、もう一度、探させてください。早く」
 そこでまた、船内の大捜索が行なわれた。十名の船員が手分けをして、懐中電燈を振り照らしながら、甲板、船室、機関部は申すに及ばず、通風筒の中から、貯炭室の底までもしらべ廻った。だが、それらしい人影はもちろん、これぞという手がかりさえも得られなかった。

水葬礼

 黒衣婦人は、空しくもとの船室に引きあげて、例の長椅子にグッタリとなったまま、この解きがたい謎を解こうとして、長いあいだ冥想にふけっていた。
 これらの出来事には関係なく、機関は絶え間なく活動し、船は暗闇の空と水の中を、全速力で、東に向かって進んでいた。
 船全体を、小きざみに震動させる機関の響き、ひっきりなしに船《ふな》べりをうつ波濤《はとう》の音、ふと忘れている頃に襲いかかる大うねりの、すさまじい動揺。
「黒トカゲ」は、長椅子の一方の腕にもたれて、何か怖いものでも見るように、その長椅子の表面のかぎ裂きのあとを見つめていた。
 振りはらっても振りはらっても、湧き上がってくる恐ろしい疑惑をどうすることもできなかった。もうそのほかに考えようがないではないか。あらゆる隅々を探しつくしたのだ。たった一つ残っているのは、人々の盲点にかかったように、捜索を忘れられている、この長椅子のなかであった。
 心をすますと、機関の震動とは別の、かすかな、かすかな鼓動が、クッションの下から、彼女の皮膚に伝わってくるように感じられた。
 人間の心臓が脈打っているのだ。椅子の中にひそんでいるだれかの鼓動が聞こえてくるのだ。
 彼女はまっ青になって、歯を喰いしばって、今にも逃げ出したい衝動をじっとおさえていた。
 だが、そうしてじっとしているうちに、椅子の中から伝わってくる鼓動は、刻一刻その振幅を増して行くように思われた。彼女にはもう、波の音も機関の響きも聞こえなかった。ただ、お尻の下の、えたいの知れぬ鼓動だけが、まるで太鼓の音のように、異様に拡大されて鳴り響いた。
 もう我慢ができなかった。逃げるもんか、だれが逃げるもんか。たとえあいつがこの中にひそんでいたとしても、袋の中の鼠じゃないか。恐れることはない、ちっとも恐れることなんかありやしない。
「明智さん、明智さん」
 彼女は思い切って、大声に呼びながら、長椅子のクッションをコツコツと叩いた。
 すると、ああ、はたして、椅子の中から、陰にこもった声が答えたのだ。
「僕は影法師のように、君の身辺をはなれないのだよ。君の作ったからくり仕掛けが、大へん役に立ったぜ」
 地の底からのように、或いは壁の中からのように響いてくる。その陰気な声が、黒衣婦人を思わず身ぶるいさせた。
「明智さん、怖くはないのですか。ここはあたしの味方ばかりですよ。警察の手のとどかない海の上ですよ。怖くはないのですか」
「怖がっているのは、君の方じゃないのかい……フフフフフフフ」
 まあ、なんて気味のわるい笑い方をするんだろう。椅子から出ようともしないで、平気でいる。奥底の知れない男だ。
「怖くはないけど、感心しているのよ。あなたに、どうしてこの船がわかりましたの」
「船は知らなかったけれど、君のそばにくっついていたら、自然とここへくることになったのだよ」
「あたしのそばに? わかりませんわ」
「通天閣の上から君に尾行することのできた男は、たった一人しかなかったはずだぜ」
「まあ、そうだったの? すてきだわ。ほめてあげますわ。売店の主人が明智小五郎だったのね。あたし、なんて間抜けだったのでしょう。あの繃帯を中耳炎といわれて信用してしまうなんて、おかしかったでしょうね」
 黒衣婦人は一種異様の感動にうたれ、彼女のお尻の下に横たわっている人物が、敵ではなく恋人ででもあるかのような、奇妙な錯覚を感じていた。
「ウン、まあね。ばかすつもりでばかされていた君の様子は、少しばかり愉快でないこともなかったね」
 世にも不思議な会話が、ここまで運ばれた時、突然ドアがひらいて、事務長姿の雨宮潤一がはいってきた。彼は室内の異様な話し声に不審をいだいたのだ。
「黒トカゲ」は相手が物をいわぬうちに、素早く唇に指を当てて合図をした。そして潤一青年をソッと手招きすると、そばの卓にあったハンド・バッグから鉛筆と手帳を取り出して、口ではなにげなく明智に話しかけながら、手はいそがしく手帳の紙の上を走った。
(手帳の文字)コノイスノ中ニ明智タンテイガイル。
「それじゃもしや、S橋の河岸《かし》で、妙な叫び声を立てたり水音をさせたりしたのも、あんたの仕業じゃなかったの?」
(手帳の文字)ハヤクミンナヲ呼ベ。丈夫ナ縄ヲモッテコイ。
「お察しの通りだよ。あの時君が油障子から顔を出しさえしなければ、こんなことにはならなかったかもしれないぜ」
「やっぱりそうだったの。で、それから、どうして尾行なすったの?」
 この会話のうちに、潤一青年は、ぬき足さし足、室外に立ち去った。
「自転車を借りてね、君の船を見失わぬように、河岸から河岸と、陸上を尾行して行ったのさ。そして、夜がふけるのを待って、小舟を頼んでこの本船に漕ぎつけ、暗闇の中で曲芸のようなまねをして、やっと甲板の上まで登りついたのだよ」
「でも、甲板には見張りの者がいたでしょう」
「いたよ。だから、船室へ降りるのにひどく手間取ってしまった。それから、早苗さんの監禁されている部屋を見つけるのが大へんだった。やっと見つかったかと思うと、ハハハハハ、ざまを見ろ、船はもう出帆《しゅっぱん》していたんだ」
「どうして早く逃げ出さなかったの? こんな所にかくれていたら、見つかるにきまっているじゃありませんか」
「ブルブルブル、この寒さに水の中はごめんだ。僕はそんなに泳ぎがうまくないんだ。それよりは、この暖かいクッションの下に寝ころんでいた方が、どんなにか楽だからね」
 実にへんてこな会話であった。一人は椅子の中の闇に横たわっているのだ。一人はそのからだの上に、クッションをへだてて腰かけているのだ。お互いに体温を感じ合わぬばかりである。しかもこの二人はうらみかさなる仇敵《きゅうてき》。すきもあらば敵の喉笛に飛びかからんとする二匹の猛虎。そのくせ、言葉だけは異様にやさしく、まるで夫と妻の寝物語のようであった。
「ねえ君、僕は夕食からずっとここに寝ているので、あきあきしてしまったよ。それに、君の美しい顔も見たくなった。ここから出てもいいかい」
 いかなる神算鬼謀《しんさんきぼう》があるのか、明智はますます大胆不敵である。
「シッ、いけません。そこを出ちゃいけません。男たちに見つかったら、あなたの命がありません。もう少しじっとしていらっしゃい」
「ヘエー、君は僕をかばってくれるのかい」
「ええ、好敵手を失いたくないのよ」
 そこへ、潤一青年を先頭に、五人の船員が、長いロープを持って、音をたてぬように注意しながらはいってきた。
(手帳の文字)明智ヲイスノ中ニトジコメタママ、ソトカラ縄ヲマキツケテ、イスゴト甲板カラ海ヘナゲコンデシマエ。
 男たちは無言の命令にしたがって、長椅子の端から、ソッと縄を巻きはじめた。黒衣婦人はニヤリと笑いながら、作業の邪魔にならぬよう、椅子を立ち上がった。
「おい、どうしたんだい。だれかきたのかい」
 それとも知らぬ明智は、椅子のそとの異様なけはいに、お人好しな不審をいだいている。
「ええ、今ロープを巻いているのよ」
 やがて、縄はほとんど椅子全体にまきつけられてしまった。
「ロープだって?」
「ええそうよ。名探偵を簀巻《すま》きにしているところよ。ホホホホホ」
 今や「黒トカゲ」は悪魔の本性を暴露《ばくろ》した。彼女は一匹の黒い鬼の形相でスックと立ちはだかると、女性とは思われぬ烈《はげ》しい口調で指図を与えた。
「さあ、みんな、その椅子をかつぐんだ。そして甲板へ……」
 六人の男が、苦もなく簀巻きの長椅子をかつぎ上げると、ドタドタと廊下から階段へ急いだ。椅子の中では、可哀そうな探偵が、網にかかった魚のように、ピチピチと身もだえしているのが感じられた。
 甲板の上は星一つない闇夜であった。空も水もただ一面の黒暗々。その中に、スクリューで泡立てられた夜光虫の燐光が、一条の帯となって、異様に白々と長い尾を引いていた。
 六人の黒法師が、棺桶のような長椅子をかついだまま、船べりに立った。
「一チ、二ッ、三ン」
 掛け声もろとも舷側をすべる黒い影。ドブンとあがる燐光の水けむり。ああ、名探偵明智小五郎はついに、あまりにもあっけなく、太平洋の藻屑《もくず》と消え去ったのであった。

地底の宝庫

 明智を包んだ長椅子は、一瞬間、船尾に泡立つ燐光の中に、生あるもののごとくグルグルと廻転していたが、たちまちにして、その黒い影は水面下に没してしまった。
「水葬礼ってやつですね。これでわれわれの邪魔者がなくなった。だが、あの元気な明智先生が、もろくも海底のもくずと消えたかと思うと、ねえマダム、ちっとばかり可哀そうでないこともありませんね」
 雨宮潤一が「黒トカゲ」の顔をのぞきこむようにして、憎まれ口をきいた。
「いいから、お前たちは早く下へ降りておしまい」
 黒衣婦人は、叱りつけるようにいって、男たちを船室へ追いやると、たった一人、艫《とも》の欄干にもたれかかって、いま長椅子を呑んだ水面を、じっと見おろしていた。
 同じリズムを繰り返すスクリューの音、同じ形に流れ去る波頭、湧き立つ夜光虫の燐光。船が走るのか水が流れるのか。そこには永劫かわることなき律動が、無神経に反覆されているばかりであった。
 黒衣婦人は、寒い夜の風の中に、ほとんど三十分ほどのあいだも、身動きさえしないで立ちつくしていた。それから、やっと船室へ降りてきた時、そこの明かるい電燈に照らし出された彼女の顔は、恐ろしく青ざめていた。頬には涙のあとがまざまざと残っていた。
 一度自分の船室へはいったけれど、彼女はそこにもいたたまれぬように、また廊下に出て、早苗さんの監禁されている部屋へ、フラフラと歩いて行った。
 ノックすると、北村という船員が、ドアをあけて顔を出した。
「お前は少しあっちへ行っておいで、早苗さんはあたしが見ているから」
 北村をしりぞかせて、彼女は部屋のなかへはいって行った。
 かわいそうな早苗さんは、うしろ手に縛り上げられ、猿ぐつわをはめられて、部屋の隅に倒れていた。「黒トカゲ」はその猿ぐつわを解いてやって、声をかけた。
「早苗さん、あなたにお知らせしなければならないことがあるのよ。大へん悪いこと。あなたがきっと泣き出すことよ」
 早苗さんは起きあがって、敵意に満ちた眼で女賊をにらみつけたまま返事をしなかった。
「どんなことだか、あなた、わかって?」
「…………」
「ホホホホホ、明智小五郎、あんたの守護神の明智小五郎が、死んじまったのよ。あの長椅子の中へはいったまま、簀巻《すま》きにされて、海んなかへ沈められてしまったのよ。たった今、たった今、甲板からドブンと水葬礼にされちゃったのよ。ホホホホホ」
 早苗さんはギョッとして、ヒステリイみたいに笑っている黒衣婦人の顔を見つめた。
「それ、ほんとうですの?」
「うそにあたしがこんなに喜ぶと思って? あたしの顔をごらんなさい。嬉しくってしようがないんですもの。でも、あんたはさぞガッカリしたでしょうね。たった一人の味方が、頼みの綱が、切れてしまったのだから。もう、あんたを救ってくれる人は、広い世界にだあれもいないのよ。未来永劫あたしの美術館にとじこめられたまま、二度と日の目を拝むことはできやしないのよ」
 相手の顔色を読み、その言葉を聞いているうちに、この凶報が決してうそでないことが、早苗さんにもわかってきた。そして、名探偵の死が彼女にとって何を意味するかということを、ハッキリ理解した。
 絶望だ。明智への信頼が強かったのに反比例して、その絶望はみじめであった。彼女は今や、恐ろしい敵の直中《ただなか》に、たった一人ぼっちでいることを、強く意識した。
 少しのあいだ、唇をかみしめて、じっとこらえていたが、とうとう我慢がしきれなくなった。彼女は両手をうしろに縛られたまま、膝の上にうなだれて、顔をかくすようにして、シクシクと泣きはじめた。膝の上に熱い涙がひっきりなしにしたたり落ちた。
「およしなさい。泣くなんてみっともないわ。意気地なし、意気地なし」
「黒トカゲ」はそれを見て、妙に甲高い声で叱ったが、彼女もいつの間にか早苗さんのそばにくず折れていた。そしてこの妖婦の頬にも、止めどもない涙が流れていた。
 無二の好敵手を失ったさびしさか、それとも何かもっと別の理由があったのか、女賊はいとも不思議な悲しみに、うちひしがれていた。
 いつのほどにか、誘拐するものとされるもの、「黒トカゲ」とその餌食《えじき》、敵《かたき》同士の二人が、まるで仲のよい姉妹のように手を取り合って泣いていた。悲しみの意味はそれぞれ違っていたけれど、悲しみの深さ激しさは、少しも変りがないように見えた。
 黒衣婦人は、五つ六つの子供のようにワアワアと声を上げて泣いた。すると、早苗さんも誘われて、同じように手ばなしで泣きはじめた。なんという意外な、非常識な光景であったろう。今彼女らは二人のいたいけな幼女でしかなかった。それとも、二人の無邪気な野蛮人でしかなかった。あらゆる理知も感情も、まったく影をひそめて、ただ悲痛の感情だけが、痛々しいまでに露出していた。
 この不思議な悲しみの合唱は、エンジンの単調な響きともつれ合って、いつまでも、いつまでもつづいた。泣きに泣いて、女賊の胸に日頃の邪悪が眼ざめるまで、早苗さんの心に敵愾心《てきがいしん》が湧きあがるまで。
 その翌日の夕ぐれ、汽船は東京湾にはいって、Tという埋立地の海岸近くに錨《いかり》をおろした。闇の深くなるのを待ってボートがおろされ、数人の人々がそれにのって、人眼のない埋立地の一角に漕ぎつけた。
 三人の漕ぎ手をボートに残して、上陸したのは黒衣婦人と、早苗さんと、雨宮潤一青年であった。早苗さんは両手を縛られたまま猿ぐつわをはめられた上、厚い布で眼かくしまでされている。いよいよ「黒トカゲ」の巣窟《そうくつ》に近づいたので、その路順をさとられない用心であろう。雨宮青年は、船員服をぬいで口ひげと頬ひげに顔をかくし、カーキ色の職工服、見たところ機械工場の職工長といったかっこうである。
 T埋立地は広々とした工場街で、住宅はほとんどなく、工業界不振時代のその頃には、夜業をいとなむ工場など皆無であったから、夜はまばらに立った青白い街燈のほかには燈火も見えず、廃墟のような場所であった。
 三人は、海岸につづく広い草原を横ぎり、工場街の道路を、グルグルと廻りあるいた末、とある一と構えの廃工場へとはいって行った。
 塀は破れ、門柱はかたむき、門内には雑草がボウボウと生え茂った、化物屋敷めいたあき工場だ。むろん燈火などは一つもないので、黒衣婦人は用意の懐中電燈を点じて、ソッと地上を照らしながら、雑草をふみしだいて先に立つ。そのあとから、眼かくしされた早苗さんの背中を抱くようにして、職工服の雨宮青年がしたがって行く。
 門から五、六間行くと、大きな木造の建物がある。懐中電燈がその建物の側面をスーとなでるように通り過ぎた。たくさんのガラス窓。だが、そのガラスはみな破れ落ちて、満足なのは一つもない。黒衣婦人は建物の破れ戸を、ガタピシひらいて、クモの巣だらけの内部へとはいって行く。
 懐中電燈が、こわされた機械類、天井を這《は》うさびたシャフト、動輪、ちぎれたベルトなどを、次々とかすめて、最後にとまったのは、建物の一隅、監督者の事務室とおぼしき小部屋であった。
 三人はそこの破れたガラス戸をひらいて、板ばりの床にあがった。
「トントン、トントントン、トントン……」
 黒衣婦人の靴の踵《かかと》が調子をつけて床を蹴る。まさかありふれたモールス信号ではあるまい。だが、何かの信号には違いなかった。その靴音が止むか止まぬに、懐中電燈の丸い光の中の床板が、方三尺ほど、音もなくスーッと横にひらいて、その下からコンクリートの地面が現われたが、驚いたことには、地面そのものが、蔵の戸前のような厚ぼったいドアになっていて、それが下方に落ちると、ポッカリと、地下道の黒い口がひらいた。
「マダム?」
 地の底から誰何《すいか》の低い声がひびく。
「ああ、きょうは大切なお客をつれてきたのよ」
 あとは無言のうちに、早苗さんの背中を抱いた雨宮青年が、地下道の階段を、注意しながら、一段一段と降りて行く。つづいて黒衣婦人の姿も地底に消えると、コンクリートのかくし戸も、床板も、もとどおり閉じられて、あとはまた、何ごともなかったような暗闇の廃工場であった。

恐怖美術館

 早苗さんは、本船からボートに乗り移る際に、厳重な眼かくしをされたままであったから、ボートがどこへ着いたのか、上陸してどこをどう歩いたのか、ここは地上なのか地下なのか、全く想像さえつかなかった。
「早苗さん、ずいぶん窮屈な思いをさせたわね。さあもういいのよ。潤ちゃん、すっかり自由にして上げるといいわ」
「黒トカゲ」の親切らしい声がしたかと思うと、猿ぐつわや両手の縄が順次にほどかれていって、眼界がパッと明かるくなった。長いあいだ暗い眼かくしに押さえつけられていた彼女の眼には、まぶしいほどの明かるさであった。
 そこは、天井も床も、左右の壁も、コンクリートで固めた、長い曲がり曲がった廊下のような場所であった。天井からは、華美な切子《きりこ》ガラスのシャンデリヤが下がっていた。そのキラキラとまぶしい光に照らされて、左右の壁ぎわにズラリと並んだガラス張りの陳列台。その中には、あらゆる形状の宝玉が、シャンデリヤの光を受けて、無数の星のようにきらめいていた。
 早苗さんは、あまりの美しさ、豪華さに、捕われの身をも忘れて、思わずアッと感嘆の声を上げた。日頃宝石類はあきあきするほど見なれているはずの大宝石商の娘さんが、声を立てて驚いたのだ。そこに集まっていた宝石の質と量とがいかにすばらしいものであったかは、くだくだしく説くまでもないであろう。
「まあ感心してくれたのね。これあたしの美術館なのよ。いいえ、美術館のほんの入り口なのよ。どう? あんたのお店の陳列とくらべて、まさか見おとりはしないでしょう。十何年のあいだ、命をかけて、智恵という智恵をしぼり、危険という危険をおかして、収集したんだもの。世界じゅうのどんな高貴のお方の宝石蔵にだって、これほどの数は集まっていないと思うわ」
 黒衣婦人は誇らしげに説明しながら、大切そうに抱えたハンド・バッグをひらいて、例の大宝玉「エジプトの星」をおさめた銀製の小函を取り出した。
「あんたのお父さまには、ちっとばかりお気の毒だったけれど、これ、あたしの長いあいだの念願だったのよ。きょうこそ、それがこの美術館へおさまることになったのだわ」
 パチンと小函の蓋をひらくと、シャンデリヤの光を受けて、五色の焔と燃え立つ大宝石。「黒トカゲ」は、さも嬉しげに、それを眺めていたが、やがてハンド・バッグから鍵束を取り出し、一つの飾り台のガラス戸をひらき、銀器の蓋をひらいたまま、その大ダイヤモンドを中央に安置した。
「まあ、なんてすばらしいのでしょう。ほかの宝石なんか、みんな石ころかなんぞのようね。これであたしの美術館の名物が、一つ増えたってわけだわ。早苗さん、ありがとう」
 皮肉をいったわけではないのだが、早苗さんに、どう答える言葉があろう。彼女は悲しげに眼を伏せたままだまっていた。
「さあ、ではもっと奥へ行きましょう。あんたに見せるものが、まだまだたくさんあるんだから」
 それから、地底の廻廊を進むにつれて、古めかしい名画を懸け並べた一郭があるかと思うと、その隣には仏像の群、それから西洋ものの大理石像、由緒ありげな古代工芸品、まことに美術館の名にそむかぬ豊富な陳列品であった。
 しかも、黒衣婦人の説明によれば、それらの美術工芸品の大半は、各地の博物館、美術館、貴族富豪の宝庫におさまっていた著名の品を、たくみな模造品とすりかえて、本物の方をこの地底美術館へおさめてあるのだという。
 もしそれが事実とすれば、博物館は模造品を得々として展覧に供し、貴族富豪は模造品を伝来の家宝として珍蔵していることになる。しかも、所有者はもちろん、世間一般も、少しもこれを怪しまないとは、なんという驚くべきことであろう。
「でも、これでは、よくできた私設博物館というだけのことだわね。少し頭のはたらく、資力のある賊ならば、だれだってまねのできることだわ。あたしはこんなもので自慢しようなんて思っていやしない。早苗さんにぜひ見てもらいたいものは、まだこの先にあるのよ」
 そして、彼女らが、廻廊の角を曲がると、そこには、これまでとは全く違った、不思議な光景がひらけていた。
 おや、これは蝋人形ではないか。だが、なんとよくできた蝋人形であろう。
 一方の壁が、長さ三間ほど、ショウ・ウインドウのようなガラス張りになって、その中に、西洋人の女が一人、黒ン坊の男が一人、日本の青年と少女とが一人ずつ、つごう四人の男女が、全裸体で、ある者は立ちはだかり、ある者はうずくまり、あるものは寝そべっているのだ。
 節くれ立った腕をくんで、仁王立ちになった、拳闘選手のような黒人。しゃがんだ膝の上に、両肘をもたせて、頬杖をついている金髪娘。長々とうつぶせに寝そべって、黒髪を肩のあたりにふさふさと波打たせ、重ねた腕に顎をのせて、じっとこちらを見つめている日本娘、円盤投げの姿勢でからだじゅうの筋肉を隆起させている日本青年。それらの男女はことごとく、容貌といい肉体といい、比べるものもないほど、美しいのである。
「ホホホホホ、よくできた生人形でしょう。でも、すこうしよくでき過ぎていはしなくって? もっとガラスに近寄ってごらんなさい。ほら、この人たちのからだには、細かい産毛《うぶげ》が生えているでしょう。産毛の生えた生人形なんて、聞いたこともないわね」
 早苗さんは、ふと好奇心をそそられて、そのガラス板に近づいた。彼女自身の運命の恐ろしさをも、つい忘れるほど、その人形たちには一種不思議な魅力があった。
 まあ、ほんとうに産毛が生えているわ。それに、この肌の色、細かい細かいしわまでも、こんなに真にせまった蝋人形なんて、あるものかしら。
「早苗さん、これ、蝋人形だと思って?」
 黒衣婦人が、薄気味のわるい微笑をふくんで、じらすようにたずねる。その言葉が、なぜか早苗さんをドキンとさせた。
「どことなく、人形とは違った、恐ろしいようなところがあるでしょう。早苗さんは、剥製《はくせい》の動物標本を見たことなくって? ちょうどあんなふうに人間の美しい姿を、永久に保存する方法が発明されたら、すばらしいとは思わない? それなのよ。あたしの部下のものが、その人間の剥製という者を考案したのよ。ここにいるのは、その人の試作品なの。まだ完全というところまではいっていないけれど、でも、蝋人形なんかのような死物ではありませんわ。生きているでしょう。中味はやっぱり蝋なのだけれど、皮膚と毛髪とは、ほんとうの人間なのよ。そこに人間の魂がつきまとっているんだわ。人間のにおいが残っているんだわ。すばらしくはなくって? 若い美しい人間を、そのまま剥製にして、生きていればだんだん失われて行ったにちがいないその美しさを、永遠に保っておくなんて、どんな博物館だって、まねもできなければ、思いつきもしないのだわ」
 黒衣婦人は、われとわが言葉に昂奮して、いよいよ雄弁になって行った。
「さあ、こちらへいらっしゃい。この奥にはもっとすばらしいものが陳列してあるのよ。これはいくら真にせまっても、魂を持っていても、動くことはできないのだけれど、この奥には、ピチピチと動いているものがあるのよ」
 みちびかれるままに、また一歩角を曲がると、今までの静的な風景とはガラリと変って、そこには、動く美術品が陳列されていた。
 太い鉄棒の、獅子か虎の檻《おり》のようなものがあって、その中に、赤々と燃える電気ストーヴといっしょに、一人の人類がとじこめられているのだ。
 それは日本人であったが、Tという映画俳優によく似た、二十四、五歳の水ぎわ立った美青年。それがスッキリと、均整のとれた肉体を丸はだかにされて、一匹の美しい野獣のように檻の中に入れられている。
 彼はふさふさとした頭髪を、両手でかきむしるようにして、檻の中をイライラと歩き廻っていたが、黒衣婦人の姿を見つけると、動物園の猿のように、鉄棒をゆすぶりながら、大声にわめき出すのであった。
「待て! 毒婦! 貴様はおれを気ちがいにしてしまう気か。いっそ早く殺してくれ。おれはもう一日も檻の中なんぞで、生きていたくはないんだ。コラ、ここをあけろ。あけてくれ……」
 彼は白い腕を鉄棒のあいだからニュッと突き出して、女賊の黒衣をつかもうとした。
「まあ、そんなに怒るもんじゃないわ。美しい顔が台なしじゃないの。ええ、お望み通り、今にやがて、息の根をとめて上げますわ。そして、このあいだまでこの檻の中に同居していたK子さんと同じように、永遠に年をとらないお人形さんにこしらえてあげますわ。ホホホホホ」
 黒衣婦人が残酷に嘲笑した。
「え、なんだって? K子さんが人形になったって? 畜生め、それじゃ、とうとうあの人を殺したんだな。そして剥製人形にしたんだな……だれが、だれが人形なんぞになるもんか。おれは貴様のおもちゃじゃないんだ。ちっとでもおれに近づいてみろ、どいつこいつの容赦はない、片っぱしから噛《か》み殺してやるぞ。喉笛に噛みついて息の根をとめてやるぞ」
「ホホホホホ、まあ今のうちに、せいぜいあばれておくといいわ。お人形にされちまったら、石のように動けなくなるんだから。それに、あたしは、そうして美しい男の子のあばれているのを見るのが、この上もない楽しみなのよ。ホホホホホ」
 黒衣婦人は、青年の苦悶《くもん》を享楽しながら、さらに新らしい恐怖に説き進んだ。
「あんた、K子さんがいなくなって、さびしいでしょう。どこの動物園へ行って見ても、猛獣の檻には大てい牡《おす》と牝《めす》とがお揃いでいるものだわ。あたし、もう先《せん》から、あんたにお嫁さんをお世話しなけりゃと思って、いろいろ心がけていたのよ。そして、きょうやっと、その花嫁さんをお連れ申したってわけなの。ごらんなさい。美しいお嫁さんでしょう。どう? お気に召さなくって?」
 早苗さんはそれを聞くと、ゾーッと悪寒《おかん》を感じて、顎のあたりがガクガクふるえるのをどうすることもできなかった。
 今こそ、「黒トカゲ」の邪悪なたくらみの全貌が明らかになった。女賊は、美しい早苗さんをまるはだかにして、この檻の中へ投げこむために、それから、頃を見て、彼女の生皮を剥ぎ、恐ろしい剥製人形として、悪魔の美術館を飾るために、あれほどの苦心をして、彼女を誘拐してきたのだ。
「あら、早苗さん、どうなすったの? ふるえているんじゃないの? 葦の葉のようにふるえているわね。わかって、あなたの役割が。でも、このお婿さん、まんざらでもないでしょう。それともお気に召さないの? お気に召しても召さなくても、あたしは、もうちゃんと、そういうことにきめてしまったんだから、我慢してね」
 早苗さんは、あまりの無気味さ恐ろしさに、もう口をきく気力もなかった。立っているのがやっとだった。頭の中がスーッとからっぽになって、フラフラとくずおれそうであった。

大水槽

「早苗さん、まだお見せするものがあるのよ。さあこちらへいらっしゃい。今度は、動物園ではなくて、水族館よ。あたしの自慢の水族館なのよ」
「黒トカゲ」は、ふるえおののく早苗さんを、手を取って引き立てながら、また次の角を曲がった。
 そこは、長い地下道の行きづまりになっていて、その奥にガラス張りの大水槽がすえてある。水槽のま上に、非常に明るい電燈がとりつけてあるので、正面の厚いガラス板をとおして、水の中の模様が、手に取るように眺められた。
 水槽は間口、奥行、深さ、ともに一間ほどもあって、その底には、異様な海草が、無数の蛇のように、もつれ合ってゆらいでいる。
 だが、これがどうして水族館なのであろう。その海草のほかは、魚類の影さえ見えないではないか。「おさかながいないでしょう。でも、不思議がることはないわ。あたしの動物園には、けだものなんていなかったですもの。水族館におさかながいないからって、ちっともおかしいことはありゃしないわ」
 黒衣婦人は薄笑いをして、また恐ろしい雄弁をふるいはじめた。
「この中へ、やっぱり人間を入れて遊ぶのよ。おさかななんかよりは、どのくらいおもしろいかもしれやしないわ。檻の中で昂奮している人間も美しいけれど、この水の中へ投げこまれた人間の、水中ダンスがどんなにすばらしいでしょう……」
 早苗さんには、それはもう黒衣婦人の声ではなくて、まざまざと眼界一ぱいにひろがる怪奇映画の幻であった。薄黒い水の中に、何か白いものがうごめいていた。ウヨウヨと鎌首をもたげた蛇のかたまりの中から、ボーッと巨大な人の顔が、ガラスの面に現われて、アップアップと鯉のように苦しい呼吸をしている。眼をつむって、眉をしかめて……その顔は男ではない。年寄りでもない。若い女だ……いやそうではない。これは決して他人ではない。そのもつれた蛇の中でもがいているのは、ああ、早苗さん自身なのだ。
「まあ、すばらしいと思わない。なんて美しいお芝居でしょう。どんな名画だって、どんな彫刻だって、それから、どんな舞踊の天才だって、これほどの美を表現したことがあったでしょうか。命と引きかえの芸術だわ……」
 だが、早苗さんはもう、この奇怪な雄弁を聞いてはいなかった。そんなには息がつづかなかったのだ。彼女は幻想の中で、おびただしい水を呑んだ。もがけるだけもがいた。そして、とうとう力がつきてしまったのだ。身にあまる恐怖と苦悶とが、ついに彼女を失神させてしまったのだ。
 黒衣婦人がふと気づいて彼女を支えようと両手をさし出した時には、早苗さんはもう、くらげのようにクナクナと、そこのコンクリートの床の上に、くず折れてしまっていた。

白い獣

それがどのくらいのあいだであったか、ハッキリわからないけれど、やがて、ふと正気づいて眼をひらいてみると、早苗さんは、先ず第一に、からだじゅうが直接空気にさらされているような感じがした。さわってみてもどこもかもスベスベしていて、なんの引っかかるものもない。つまり彼女はまっぱだかにされて、そこに横たわっていたのだ。
 ヒョイと気がつくと、眼の前に太い鉄の棒が何本も何本も縞のように立っている。ああ、わかった。ここは、檻の中なのだ。彼女は気を失っているあいだに、檻の中へ入れられてしまったのだ。
 あの檻にちがいない。気を失う前に見せられた、あの若い男のとじこめてあった檻にちがいない。では、ここには彼女一人ではないのだ。若い美しい男が、彼もまたまっぱだかにされて、どこかそのへんにいるはずだ。
 早苗さんは、そこまで思い出すと、顔を上げて、あたりを見廻す勇気が失せてしまった。ああ、どうすればいいのだ。彼女は身に一糸もまとってはいないのだ。その恥かしい有様で、若くて美しい、そのうえ、はだかの男の前に横たわっているのだ。
 彼女は赤くなるどころか、もうまっ青になって、サッと身を起こすと、くくり猿みたいにちぢこまって、隅っこの方へあとずさりをして行った。そして、眼をそらすように、そらすようにしていても、なにぶん狭い檻の中だ、自然に眼界にはいってくるのを防ぐわけにはいかない。彼女はとうとうそれを見てしまった。まっぱだかの男を見てしまった。
 エデンの園のアダムとイヴみたいな二人が、地底の牢獄で、いま眼と眼を見かわしたのだ。どうすればいいのだ。何を言えばいいのだ。恥かしさの極、早苗さんの両眼には子供のような涙が一ぱいあふれていた。その涙のギラギラする後光が男の白いからだを包んで、チロチロといびつに輝いている。
「お嬢さん、ご気分はどうですか?」
 突如として、朗々としたバスの声が響いた。青年が物をいっているのだ。
 早苗さんは、ハッとして、涙をはらうために眼をしばたたいて、青年の顔を眺めた。
 すぐ眼の前に、油で拭いたようになめらかな白い顔があった。高くて広い額、ふさふさとした黒髪、二重瞼《ふたえまぶた》のすき通るような眼、ギリシャ型の高い鼻、赤くて引きしまった唇。その青年が美男であればあるだけ、しかし、早苗さんは恐ろしかった。
「黒トカゲ」は彼女をこの青年の花嫁になぞらえたではないか。青年はそういうつもりでいるのではないかしら。と考えると、その相手が、そして、自分までが、けだもののようにまっぱだかで、逃げようにも逃げられぬ檻の中に、とじこめられている有様を、からだじゅうの血の気が失せるほどあさましいことに思わないではいられなかった。
「いや、お嬢さん、決してご心配なさることはありません。僕はこんなふうをしていても野蛮人じゃないのですから」
 青年は言いにくそうに、どもりながらそんなことをいった。彼の方でもひどく恥かしがっているのだ。早苗さんはそれを聞いて、ホッと胸をなでおろす気持だった。
 やがて、彼らは、だんだんお互いの気心がわかっていくにつれて、身の上話をはじめたり、女賊の気違いめいた所業を呪ったり、よそ眼には仲のよい雌雄の白い動物ででもあるように寄りそって、ヒソヒソ話をつづけるのであった。
 そうしているあいだに、いつか夜が明けたと見えて、穴蔵の底にも、人のざわめくけはいが感じられ、やがて「黒トカゲ」の部下の荒くれ男どもが、つながるようにして、檻の中の新来の客を見物に押しよせてきた。
 早苗さんが、この不作法な見物たちに、どのような恥かしい思いをさせられたか、青年がいかに野獣のように怒号したか、賊の男どもがどんな烈しい侮辱の言葉を口にしたか、それは読者諸君のご想像にまかせるとして、そうして地下室に泊っている四、五人の部下のものが、ガヤガヤやっているところへ、例のモールス信号みたいな合図の音がかすかに聞こえて、やがて一人の船員風の男が、何かただならぬ気色《けしき》で穴蔵の中へはいって来た。

人形異変

 その船員風の男は「黒トカゲ」の部下のうち、沖の汽船の中に寝泊りをしている一人であったが、彼は地下道の奥にある首領「黒トカゲ」の私室の前に近づくと、やっぱり暗号めいた叩き方で、そこのドアをノックした。
「おはいり」
 女賊の権威を以て、荒くれ男ばかりの中にいても、ドアに鍵をかけるなんて不見識なことはしない。夜中であろうが、「おはいり」の一ことで、ドアはいつでもひらくようになっている。
「まあ、どうしたのさ、朝っぱらから。まだ六時じゃないの?」
「黒トカゲ」は白いベッドの上に、白絹のパジャマ一枚で、不行儀な腹ばいになったまま、はいってきた男を横眼で見ながら、巻煙草に火をつける。ムクムクと豊かな肉が、すべっこい白絹の表にまる出しだ。おかしらがそういう恰好でいる時ほど、部下の男どもが困ることはない。
「ちょっと、へんなことがあったんです。だもんだから、急いでお知らせにきたんですが」
 男はなるべくベッドの方を見ないようにしながら、モジモジして言った。
「へんなことって、何?」
「船の火夫をやらせてある松公ですね。あいつが、ゆうべのうちにいなくなっちゃったんです。船じゅう探してみましたけれど、どこにもいねえ。まさかズラカルはずはねえんだから、もしや、陸《おか》で捕まったんじゃないかと思いましてね。それが心配だものだから」
「フーン、じゃ松公を上陸させたのかい」
「いや、決してそうじゃねえんで。ゆうべ一度船へ帰った潤ちゃんが、もう一度こちらへもどってきたでしょう。その時のボートの漕手の中に、松公がまじっていたんですが、ボートが本船へ帰ってみると松公だけいねえんです。みんなの思い違いじゃないかと船じゅうを探した上、こっちへきてたずねてみると、松公なんかきていねえというじゃありませんか。やつはどっかそのへんの町をウロウロしてて、おまわりにでもとっ捕まったんじゃねえでしょうか」
「そいつは困ったねえ。松公はいやに薄のろで、これという役に立たないもんだから、火夫なんかやらせておいたんだが、あいつのこった、捕まりでもしたら、どうせヘマをいうにきまっているわねえ」
「黒トカゲ」も、思わずベッドの上に起きなおって、眉をしかめながら、取るべき処置を考えたのであるが、ちょうどそうしているところへ、又してもへんてこな知らせが飛びこんできた。
 突然ドアがひらいて、三人の部下が顔を出すと、一人が早口にしゃべり立てた。
「マダム、ちょっときてごらんなさい。へんなことがあるんだから。人形がね、着物を着てるんですぜ。それから、からだじゅうが宝石でもって、ギラギラ光りかがやいているんですぜ。一体だれがあんなふざけたまねをしやがったんだと、仲間しらべをしてみたんですが、だあれも知らねえっていうんです。まさかマダムじゃねえんでしょうね」
「ほんとうかい」
「ほんとうですとも、潤ちゃんなんか、びっくりしちゃって、まだボンヤリとあすこに立っているくらいです」
 何かしら想像もできないへんなことが起こっているのだ。松公の行方不明とこれとのあいだに、どんな関係があるのか知らぬが、時も時、二つの事変が同じように起こるとは。地底王国の女王も、もう落ちついてはいられなかった。彼女は一同をそとに出しておいて、手早くいつもの黒ずくめの洋装になって、剥製人形陳列の現場へ急いだ。
 行ってみると、いかにも狐にでもつままれたような、へんてこな事が起こっていた。仁王立ちの黒人青年が、ルンペンみたいなカーキ服を着て、その胸に例の大宝石「エジプトの星」を、まるで功一級の勲章のように得意然と光らかせているかと思うと、膝の上に頬杖をついた金髪娘が、日本娘の袂《たもと》の長い着物を着て、両の手首と足首とに、ダイヤの胸飾り、真珠の首飾りを、手かせ足かせの形ではめてすましている。寝そべった日本娘は、胴中に古毛布を巻きつけて、ふさふさとした黒髪の上から、さまざまの宝石を瓔珞《ようらく》みたいに下げて、ニヤニヤ笑っているかと思うと、円盤投げの日本青年はまっ黒によごれたメリヤスのシャツを着て、これも宝石の首飾り、腕環をはめて、光りかがやいているといったあんばいなのだ。
 黒衣婦人は、そこに立っていた雨宮青年と顔を見合わせたまま、急には言葉も出ないほどびっくりしてしまった。
 これはまあなんという人を喰ったいたずらだろう。剥製人形の奇妙な衣裳の袂の長い着物は、早苗さんがゆうべまで着ていたもの。そのほかのは、みな「黒トカゲ」の部下の男たちの持ち物であった。寝室の戸棚の中や行李《こうり》にしまってあったのを、何者かが取り出して、人形に着せたのだ。それから宝石類は、むろん宝石陳列室のガラス箱の中から持ってきたもので、そこのガラス箱は、ほとんど空っぽになっているという始末だった。
「だれがこんなばかばかしいまねしたんでしょう」
「それがまるでわからないのですよ。今ここには、男は僕のほかに五人きゃいないんですが、みんな信用のおけるやつばかりですからね。一人一人聞いてみたんだけれど、だれも全くおぼえがないというんです」
「入り口の寝ずの番は大丈夫だったの?」
「ええ、へんなことは少しもなかったそうです。それに、仲間以外のものがはいろうとしたって、あすこの揚げ蓋は中からでなきゃ、ひらかないんですからね。いたずら者が外部から侵入することは、まったく不可能ですよ」
 そんなことをボソボソささやき合ったあと、二人は、まただまって顔を見合わせていたが、やがて、黒衣婦人はふと気づいたように、「あっ、そうかもしれない」とつぶやきながら、顔色を変えてあの人間|檻《おり》の前へ走って行った。だが、その檻の小さな出入り口を調べてみても、別に錠前をこわした跡もない。
「君たち、ここをどうかしたんじゃないのかい。ほんとうのことをいってくれたまえね。あんないたずらしたの、君たちなんだろう」
 黒衣婦人が、かん高い声で呼びかけた。そこには檻の中のアダムとイヴとが、仲よく向かい合って、何かしきりとささやき交わしていたのだが、突然女賊の襲来にあって、たちまちそれぞれの身構えをした。早苗さんは隅っこの方で、またくくり猿の形になるし、青年はやにわに立ち上がって、拳を振りながら黒衣婦人の方へ近づいて行く。
「なぜ、返事をしないの。お前だろう人形に着物を着せたのは」
「ばかなことをいえ、おれは檻の中にとじこめられているんじゃないか、貴様は気でも違ったのか」
 青年が満身に怒気《どき》をふくんでどなり返した。
「ホホホホホ、まだいばっているのね。君でなけりゃそれでいいのよ。僕の方にも考えがあるんだから。時に、そのお嫁さんお気に召したかい」
 黒衣婦人はなぜか別のことを言い出した。青年がだまっているので、再びいう。
「お気に召したかって聞いているのよ」
 青年は隅っこの早苗さんと、チラッと眼を見かわしたが、
「ウン、気に入った。気に入ったから、この人だけは、おれが保護するんだ。貴様なんかに指一本だって差させはしないぞ」
 と叫んだ。
「ホホホホホ、多分そんなことだろうと思った。それじゃせいぜい保護してやるがいい」
 黒衣婦人はあざ笑いながら、ちょうどそこへやってきた職工服の雨宮青年を振り返った。
「潤ちゃん、あの娘さんを引きずり出してね、タンクへぶちこんでおしまい」
 烈しく命じて、檻の鍵を青年に手渡しした。
「少し早過ぎやしませんか。まだ一と晩たったきりですぜ」
 雨宮青年は顔一ぱいのモジャモジャの付けひげの中から、眼をみはって聞き返した。
「いいのよ。あたしの気まぐれは今はじまったことじゃない。すぐやっつけておしまい……いいかい、あたしは部屋で食事をしているからね。そのあいだにちゃんと用意をしておくのよ。それから、あの宝石なんかを、陳列箱へ元通り返しておくように言いつけといてください。頼んでよ」
 黒衣婦人はそう言い捨てたまま、振り向きもしないで、自分の部屋へ引き上げて行った。
 彼女は激怒していたのだ。えたいの知れぬ人形の異変が、彼女を極度に不快にした上に、いままた、檻の中の男女がさもむつまじく話し合っている有様を見せつけられて、かんしゃくが破裂したのだ。
 女賊は決して、早苗さんをほんとうにお嫁入りさせるつもりはなかった。ただ、彼女を怖がらせ恥かしめ、おびえ悲しむ様子を見て楽しもうとしたのだ。それが全く当てがはずれて、男は身を以て早苗さんを守ろうとし、早苗さんは早苗さんで、それをさも嬉しげに、感謝にたえぬまなざしで見上げていたではないか。黒衣婦人が、嫉妬にも似たはげしい不快を感じたのは無理ではなかった。
 難儀な仕事をおおせつかった潤一青年は、迷惑らしく、しばらくためらっていたが、やがて仕方なく檻の出入口に近づいて行った。
「貴様、この娘さんをどうしようというのだ」
 檻の中の青年は、恐ろしい形相でどなりながら、はいってきたらつかみ殺すぞといわぬばかりの身構えで、入り口の前に立ちはだかった。だが、さすがは拳闘青年、雨宮は別に恐れる様子もなく、錠前に鍵を入れてガチャガチャいわせたかと思うと、サッと戸をひらいて檻の中へ飛びこんでいった。
 ひげモジャの職工服と、全裸の美青年とが、互いの腕をつかみ合いながら、恐ろしい権幕《けんまく》でにらみ合った。
「どっこい、そうはいかぬぞ。おれが生きてるあいだは、娘さんに指も差させない。連れ出せるものなら連れ出してみろ。だが、その前に、貴様しめ殺されない用心をするがいい」
 青年の死にもの狂いの両腕が、雨宮潤一の首へ、気味わるくからんできた。
 すると、不思議なことに、雨宮はいっこう抵抗する様子もなく、腕をからまれたまま、首をグッと前へ突き出して、青年の耳元へ口を持って行ったかと思うと、何かしらヒソヒソとささやきはじめた。
 青年は、最初のあいだは、首を振って聞こうともしなかったが、やがて、彼の顔になんともいえぬ驚きの色が浮かんできた。それと同時に、彼はうって変ったようにおとなしくなり、相手の首に巻きつけていた両腕を、ダラリとたれてしまった。

離魂病

 雨宮潤一は、檻の中の青年を、一体どんな口実でだましおおせたのか、それからしばらくすると、気を失ったようにグッタリとした全裸の乙女を、小脇にかかえて、例のガラス張りの大水槽の前へやってきた。水槽の横に垂直の梯子《はしご》がかかっている。彼は早苗さんを抱いたままそれを登って、上部の足だまりに立つと、鉄板でできた水槽の蓋をひらいて彼女のからだを水中へ投げこんだ。それから、蓋を元通り閉めて、梯子を降り、「黒トカゲ」の私室のドアを細目にひらいて、そのすき間から声をかけた。
「マダム、お命じの通り運びましたよ。早苗さんは今、タンクの中で泳いでいる最中ですぜ。早く見てやってください」
 それから彼は職工服のポケットから、小さくたたんだ一枚の新聞紙を取り出すと、それをひろげ、タンクの横の椅子の上へソッと置いて、なぜか急ぎ足で、廊下の向こうへ立ち去って行った。
 それと行きちがいに、ドアがひらいて黒衣婦人が現われ、ツカツカと水槽の前に近づいて行った。
 水槽の蒼味《あおみ》がかった水は、ガラス板の向こう側で、ひどく動揺していた。底には大小さまざまの海藻が無数の蛇のように鎌首をもたげて、あわただしくゆれ動いていた。
 そして、その中を泳ぎもがく裸女の姿……前夜早苗さんが幻想した光景が、そっくりそのまま実現したのであった。
 黒衣婦人の両眼は残虐にかがやき、青ざめた頬は昂奮のために異様にふるえて、両のこぶしをかたくにぎりしめ、歯を喰いしばりながら、水槽に見入っていたが、彼女はふと、裸女の様子がいつものように活溌でないことに気づいた。活溌でないどころか、実はもがきもなんにもしていないのだ。そんなふうに見えたのは、動揺する水のためで、娘の白いからだは、ただ水のまにまにゆらめいていたにすぎないことがわかってきた。
 気の弱い早苗さんは、水槽にはいる前に、すでに失神していたので、水中の苦悶を味わわなくてすんだのであろうか。だが、どうもそれだけではないらしい。見ていると、水中の娘のからだが徐々に廻転して、今まで向こう側にあった顔が、正面のガラス板に現われた。おや、これが早苗さんの顔だろうか。いやいや、いくら水の中だといって、こんな相好《そうごう》に変るはずはない。ああ、わかった、わかった。これは早苗さんではなくて、あの人形陳列所に飾ってあった剥製の日本娘ではないか。だが一体全体どうしてこんな間違いが起こったのであろう。
「だれか、だれかいないかい。潤ちゃんはどこへ行ったの」
 黒衣婦人はわれを忘れて大声に叫び立てた。すると、部下の男たちが、剥製人形陳列所の方から、ドヤドヤとやってきたが、彼らの方にも何か異変があったのか。一同顔色が変っている。
「マダム、またへんなことがおっぱじまったのですよ。人形が一人足りねえんだ。さっき着物を脱がせたり、宝石をかたづけたりした時にはちゃんとあったんですが、今見ると、ほら、あの寝そべっている娘さんね、あれが一人だけ行方不明なんです」
 一人の男が、あわただしく報告した。だが、それは黒衣婦人の方では先刻承知のことであった。
「お前たち、檻の中を見なかった? 早苗さんはまだ檻の中にいたかい」
「いいえ、男一人っきりですぜ。早苗さんといやあ、潤ちゃんがそのタンクの中へほうりこんだんじゃありませんかい」
「ああ、ほうりこんだにはほうりこんだけれど、早苗さんでなくて、よくごらん、お前たちが探している剥製人形なんだよ」
 そういわれて男たちは水槽をのぞきこんだが、いかにもその中に浮いているのは、紛失した剥製人形に違いなかった。
「はあてね、こいつあ面妖《めんよう》だわい。だれが一体こんなまねをしたんですい?」
「潤ちゃんよ。お前たち潤ちゃんを見かけなかったかい。今ここにいたばかりなんだが」
「見かけませんでしたよ。先生きょうはなんだかひどく怒りっぽいんですぜ。僕たちを何か邪魔者みたいに、あっちへ行け、あっちへ行けって、追いまくるんですからね」
「フーン、それは妙ね。でもどこへ行ったんでしょう。そとへ出るはずはないんだから、お前たちよく探してごらん。そして、いたら、すぐくるようにってね」
 男たちが、引き下がって行くと、黒衣婦人は何か不安らしく、じっと空《くう》を見つめて考えごとをしていた。
 一体これはどうしたことであろう。汽船の火夫が行方不明になってしまった。それから、剥製人形の異変が起こった。今はまた、早苗さんであるべきはずの娘が、剥製人形に早変りしてしまった。これらの奇妙な出来事のあいだに何か連絡があるのではないかしら。偶然の一致とも思われぬ節が見えるではないか。
 何かしら人力以上の恐ろしい力が働いているような気がする。それは一体なんであろう……ああ、もしかしたら。いやいや、そんなばかなことがあってたまるものか。断じて、断じて、そんなことはありゃあしない。
 黒衣婦人は心中に湧き上がってくる大きな化物みたいなものを、押さえつけるのに一所懸命だった。さすがの女賊も、からだじゅうに冷たい脂汗がじっとりと浮かんでくるほどの恐ろしい不安になやまされていた。
 やがて、彼女はそこにあった椅子に腰かけようとして、ヒョイとその上の新聞に気がついた。さいぜん雨宮潤一が何か意味ありげにひろげておいた新聞である。
 はじめはなにげなく、やがて非常に真剣な表情になって、黒衣婦人の眼が、その新聞記事に吸い寄せられて行った。
「明智名探偵の勝利――岩瀬早苗嬢無事に帰る――宝石王一家の喜び――」
 三段抜きの大見出しが、信じがたい意味をもって女賊を捉えたのだ。彼女は大急ぎで新聞を拾い取ると、その椅子にかけて熱心に読みはじめた。記事の内容は大略左のようなものであった。

 怪賊「黒トカゲ」のために誘拐されたと信じられていた宝石王岩瀬氏の愛嬢早苗さんが、昨七日午後岩瀬家の本邸に帰宅した。探聞するところによると、岩瀬氏は令嬢の身代りとして大宝玉「エジプトの星」を賊に与えた模様であるから、賊は約束を守って令嬢を送り返したのであろうか。記者はそのように考えて、岩瀬庄兵衛氏と早苗嬢に面会したのだが、両人ともこれは全く私立探偵明智小五郎氏の尽力《じんりょく》によるものであって、決して賊が約束を守ったわけではない。しかし、詳しいことはいま申しあげかねる事情があるから、深く尋ねないでくれとの意外な言葉であった。怪賊「黒トカゲ」は一体どこに姿をひそめているのであろうか。問題の明智探偵は、単身「黒トカゲ」の後を追って、今のところ行方不明のよしであるが、名探偵と怪盗との一騎討ちは果たしていずれの勝利となるであろうか。名玉「エジプトの星」は再び岩瀬氏の手にもどるか否か。われらは限りなき不安をもって次の報知を待つものである。

 そして「喜びの親子」と題する大きな写真版がかかげられ、岩瀬氏と早苗さんとが、応接室の椅子にもたれて、ニコニコ笑っている顔が、明瞭に印刷されていた。
 この信じがたい、まるで怪談のような新聞記事を読み、写真を見ると、さすがの女賊も、めったに見せたことのない驚きの色を、その美しい顔に現わさないではいられなかった。驚きというよりは、なんとも形容のできない恐怖であった。それはきのうの日付の大阪の大新聞であったが、記事中に「昨七日」とあるのは、ちょうど前々日、「黒トカゲ」の汽船が大阪湾を航海していた時にあたる。その日、早苗さんは、ちゃんと船の中にいたのだ。いや、その日ばかりではない。きのうもきょうも、つい今しがたまで檻の中にまっぱだかで震えていたではないか。
 これは一体どうしたことなのだ。まさかこれほどの大新聞が、間違った記事をのせるはずはない。いや、何よりも確かなのは写真である。船の中にとらわれていたはずの早苗さんが、同じその日に、一方では大阪郊外の岩瀬邸でニコニコ笑って坐っているなんて、こんなへんてこなことがあり得るだろうか。
 聡明な黒衣婦人にも、この奇々怪々な謎だけは、どうにも解くすべがなかった。彼女は今、生れてはじめての、なんともえたいの知れぬ恐怖にうちのめされて、顔は死人のように青ざめ、額には脂汗の玉が無残ににじみ出していた。「離魂病」という妙な言葉が、ふと彼女の頭に浮かんだ。一人の人間が二人になって、別々の行動をするという、不可解な言い伝えである。大昔の草子《そうし》類でも読んだことがある。外国の心霊学雑誌でも見たことがある。心霊現象などを全く信じない現実家肌の黒衣婦人ではあったが、今はその信じがたいものを信じでもするほかに、考えようがないのである。
 そうしているところへ、雨宮青年を探しに行った男たちがドヤドヤ帰ってきて、どこを探しても潤ちゃんの姿が見えないと報告した。
「今、入口の番をしているのはだれなの」
 黒衣婦人は力ない声で尋ねた。
「北村ですよ、だれも通らないっていうんです。あの男にかぎって間違いはありませんからね」
「じゃあ、この中にいるはずじゃないか。まさか、煙みたいに消えてなくなるはずはありやしない。もう一度よく探してごらん。それから、早苗さんもよ。このタンクの中のがそうじゃないとすると、あの娘もどこかに隠れているはずなんだから」
 男たちは、首領の青ざめた顔を、不審らしくジロジロと眺めていたが、また不承不承《ふしょうぶしょう》に、廊下の向こうへと引き返して行こうとした。
「ああ、ちょっとお待ち。お前たちのうち二人だけ残ってね、このタンクの中の人形を取り出しておくれ。念のためによく調べてみたいんだから」
 そこで、二人の男が残って、梯子を登って、大水槽の中から、剥製人形を抱きおろし、床の上に長々と横たえたのであるが、そのグッタリとなった人形を、いくら念入りにしらべてみても、早苗さんでないことはいうまでもなく、恐ろしい謎を解く手がかりなどは、どこにも発見できないのであった。
 黒衣婦人は、イライラとその辺を歩き廻っていたが、また元の椅子に腰かけて、もう一度新聞記事を読みはじめた。何度読んでも同じことだ。早苗さんは二人になったのだ。写真の顔も早苗さんに間違いはない。
 そうしていると、突然、彼女の椅子のうしろで、マダムと呼ぶ声がした。
 黒衣婦人はギョッとしてふり返ったが、そこに立っている男を見ると、
「まあ、潤ちゃん、お前どこへ行っていたの」
 と叱るように言った。
「そして、この始末は一体どうしたっていうのよ。早苗さんのかわりにこんな人形をほうりこんでおくなんて、いたずらも大概にするがいいじゃないか」
 だが雨宮青年は、だまって突っ立ったまま、何も答えなかった。じらすようにニヤニヤ笑いながら、いつまでも、黒衣婦人の顔を眺めていた。

二人になった男

「なぜだまってるの? 何かあるんだわね。人が違ったようだ。どうしたの? それともあたしに反抗しようとでもいうわけなの?」
 潤一青年の態度があまりふてぶてしいものだから、黒衣婦人は思わずかん高い声を立てた。そうでなくても、さいぜんからの数々の怪異に、無性にいらだたしくなっていた矢先なのだから。
「早苗さんはどこにいるの? それとも、お前知らないとでもいうのかい」
「そうです。僕はちっとも知らないのですよ。檻《おり》の中にでもいるんじゃありませんか」
 やっと潤ちゃんが答えた。だがなんという不愛想な口のきき方であろう。
「檻の中って、お前が檻の中から出したんじゃないの」
「そこがどうもよくわからないのですよ。一度調べてみましょう」
 潤一青年はそう言い捨てて、ノコノコ歩き出した。ほんとうに檻の中を調べてみるつもりらしい。この男は気でも違ったのかしら。それとも、何か別のわけでもあるのかしら。黒衣婦人は妙に気がかりになって、潤ちゃんの挙動を監視しながら、そのあとについて行った。
 人間檻の鉄格子の前に行って見ると、出入り口の鍵が差したままになっている。
「お前、きょうはほんとうにどうかしているわね。鍵をそのままにしておくなんて」
 つぶやきながら、薄暗い檻の中をのぞきこんだ。
「やっぱり、早苗さんはいやしないじゃないか」
 向こうの隅っこに、裸体の男が一人うずくまっているばかりだ。どうしたのか、きょうはひどく元気のない様子で、グッタリとうなだれている。それとも眠っているのかしら。
「あいつに聞いてみましょう」
 潤ちゃんは、ひとり言のようにいって、鉄格子をひらくと、檻の中へはいって行った。どうも、することがすべて常軌を逸している。
「おい、香川さん、お前早苗さんを知らないかね」
 香川というのは、檻に入れられていた美青年の名だ。
「おい、おい、香川さん、寝ているのかい。ちょっと起きてくれよ」
 いくら呼んでも返事しないので、潤一青年は香川美青年の裸体の肩に手をかけて、グイグイと揺り動かした。だが、相手のからだは無抵抗にゆれるばかりで、少しも手ごたえがない。
「マダム、へんですぜ。こいつ死んじまったんじゃないかしらん」
 黒衣婦人はただならぬ予感に慄然《りつぜん》とした。一体何事が起こったというのだ。
「まさか自殺したんじゃあるまいね」
 彼女は檻の中へはいって、香川青年のそばへ近づいて行った。
「顔を上げて見せてごらん」
「こうですかい」
 潤ちゃんが、美青年の顎に手をかけて、うなだれていた顔をグイと上げた。
 ああ、その顔!
 さすがの女賊「黒トカゲ」も「アッ」と悲鳴を上げて、よろよろとあとずさりをしないではいられなかった。悪夢だ。夢にうなされているとしか考えられない。
 そこにうずくまっていた男は、香川美青年ではなかったのだ。実に意外なことには、ここにもまた、解しがたき人間の入れかえが行なわれていた。では、その裸体男は一体何者であったか。
 黒衣婦人は、狂気の不安におののいた。一つのものが二つに見えるという精神病があるならば、彼女はその恐ろしい病気に取りつかれたのかもしれない。
 潤一青年が、顎を持ってグイとあお向けているその男の顔は、やっぱり潤一青年であった。潤ちゃんが二人になったのだ。まっぱだかの潤ちゃんと、職工服を着て付けひげをした潤ちゃんと。架空に眼に見えぬ大鏡が現われて、一人の姿を二つに見せているとでも考えるほかはなかった。だが、どちらが本体、どちらがその影なのであろうか。
 さいぜんは早苗さんが二人になった。それは新聞の写真であったけれども、今度は実物なのだ。しかも、その二人の潤ちゃんが、眼の前に顔を並べているではないか。そんなばかばかしいことが現実に起こるはずがなかった。そこに大きなトリックがかくれているのだ。だが、そんな途方もないトリックを、一体だれが考えついたのか。そしてなんのために……。
 憎らしいことには、ひげもじゃの方の潤ちゃんが、あっけに取られた黒衣婦人を嘲笑するように、お化けみたいに笑っている。何を笑うのだ。彼こそ驚かなければならないのではないか。それをまるで気ちがいかあほうみたいに、無神経にニヤニヤ笑っているとは。
 潤一青年は笑いながら、またはげしく裸体の方の潤ちゃんをゆすぶりつづけた。すると、やがて、揺すぶられていた潤ちゃんが妙なうなり声を立てて、ポッカリと眼をひらいた。
「ああ、やっと気がついたな。しっかりしろ。お前こんなとこで何をしていたんだ」
 職工服の潤一青年がまたしても非常識な物の言い方をした。
 裸体の方の潤ちゃんは、しばらくのあいだ、何がなんだかわからない様子で、眠そうな眼をしばたたいたが、ふと前に立っている黒衣婦人に気づくと、それが気づけ薬ででもあったように、ハッと正気に返った。
「ああ、マダム、僕はひどい目にあいましたよ……ああ、こいつだ。この野郎だっ」
 職工服の潤一青年を見るなり、彼は狂気のようにむしゃぶりついて行った。潤ちゃんがもう一人の潤ちゃんに組みついて、恐ろしい格闘をはじめたのだ。
 だが、この悪夢のような争いは長くはつづかなかった。見る間に裸体の方が、コンクリートの床の上に叩きつけられてしまった。
「畜生め、畜生め、貴様おれに化けやがったな。マダム、油断しちゃいけません。こいつは恐ろしい謀反人ですぜ。火夫の松公が化けているんだ。こいつは松公ですぜ」
 投げつけられて平べったくなったまま、裸体の潤ちゃんがわめき散らした。
「おい、そこのお方、手をあげてもらおう。潤ちゃんの話を聞くあいだ、おとなしくしているんだ」
 事態容易ならずと察した黒衣婦人は、すばやく用意のピストルをにぎって、職工姿の方の潤一青年にねらいを定めた。言葉はやさしいけれど、キラキラ光る眼色に決心のほどが現われている。
 職工服はいわれるままに、おとなしく両手をあげたが、顔は相変らずニヤニヤ笑っている。薄気味のわるい男だ。
「さあ、潤ちゃん話してごらん。一体これはどうしたわけなの?」
 潤ちゃんはにわかに裸体を恥じるように、からだをちぢめながら、話しはじめた。
「皆がゆうべここへ着いてから、僕だけがもう一度本船へ帰ったのはご存じですね。あの時ですよ。本船の用事をすませて、ボートで上陸すると、いつの間にか、こいつが……火夫の松公が暗闇の中をノソノソついてくるじゃありませんか。僕は思いきり呶鳴りつけてやったんですが、すると、こいつめ、いきなり僕に飛びかかってきやあがった。
 ボンクラの松公があんなに強いとは思いもよらなかったですよ。この僕をひどい目にあわせやあがった。とうとう当身《あてみ》でもって気を失ってしまった。それから、どれほどたったか、ふと眼をさますと、僕は手足を縛られて、まっぱだかにされて、ここの物置き部屋にころがされていたんです。どなろうとしても、猿ぐつわがはめてあるので、どうにもならねえ。もがいていると、こいつが物置き部屋へはいってきやあがった。見ると、ちゃんと僕の職工服を着ているんです。服ばかりじゃない、つけひげまでして、なんて変装のうまいやつでしょう。僕とそっくりの顔つきをしているじゃありませんか。
 ははあ、こいつおれに化けて何か一仕事たくらんでいるな。見かけによらない悪党だわい、と感づいたけれど、縛られていてどうにもできない。すると、こいつめ、もう少し我慢しろよとぬかして、また当身を喰らわしゃあがった。意気地のない話ですが、もう一度気を失っちまったんです。そして今やっと正気に返ったわけなんですよ。
 ヤイ松公、ざまあ見ろ。こうなったら貴様、もう運のつきだぜ。今に思う存分仕返しをしてやるから、楽しみにして待っているがいい」
 潤ちゃんの話を聞き終った黒衣婦人は、一方ならぬ驚愕を押しかくして、さも愉快らしく笑い出した。
「ホホホホホ、味をやるわね。松公がそんな隅におけない悪党とは知らなかった。ほめて上げるよ。するとさいぜんからのへんてこな出来事は、みんなお前の仕業だったのね。タンクの中へ人形をほうりこんだのも、剥製人形どもに妙な着物を着せたのも。だが、一体なんのためにあんなまねをしたんだい。かまわないからいってごらん。ねえ、ニヤニヤ笑ってないで返事をしたらどう?」
「返事をしなかったらどうするつもりだい?」
 職工服の人物が、からかうようにいうのだ。
「いのちを貰うのさ。お前は、お前の御主人の気質をまだ知らないと見えるわね。御主人が、血を見ることが何よりも好物だってことをさ」
「つまり、そのピストルを、ぶっぱなすというわけなんだね。ハハハハハ」
 傍若無人の高笑いだ。
 見ると、彼はいつの間にか、上げていた両手をおろして、無精らしく、パンツのポケットに押しこんでいた。
 黒衣婦人は思いもよらぬ部下の侮辱にあって、ギリギリと歯がみをした。
 もう我慢ができなかった。
「笑ったね、じゃあ、これを受けてごらん」
 と、叫ぶようにいったかと思うと、いきなりピストルの狙いを定めて、グッと引き金を引いた。

再び人形異変

 職工服の男は、つまらない毒口をきいたばっかりに、ついに一命を失ったか。いやいや、決してそんなことは起こらなかった。彼はやっぱりパンツのポケットに両手を突っこんだまま、さもおもしろそうに笑っていた。
 引き金は引かれたけれど、カチッという音がしたばかりで、弾丸は発射されなかったのだ。
「おや、妙な音がしましたね。ピストルが狂っているのじゃありませんかい」
 嘲笑されて、黒衣婦人はあわて出した。二発目、三発目と、ぶっつづけに引き金を引いたが、やっぱりカチッカチッというはかない音がするばかりだ。
「畜生め、それじゃあ、お前がたまを抜いておいたんだな」
「ハハハハハ、やっと合点がいきましたね。いかにも仰せの通り、ほら、これですよ」
 彼は右手をポケットから出して、手の平をひろげて見せた。そこには小さい弾丸が幾つも、可愛いらしいおはじきのようにのっかっていた。
 ちょうどその時、檻《おり》のそとにあわただしい足音がして、部下の荒くれ男どもが駈けつけてきた。
「マダム、大へんだ。入り口の見張り番をしていた北村が縛られているんです」
「縛られた上に気絶しているんです」
 さては、これも松公の仕業にちがいない。だが、どうして北村だけを縛って、ほかの者をそのままにしておいたのだろう。これにも何か特別のわけがあるのかしら。
「おや、こいつは一体何者ですい?」
 男どもは二人の潤一青年に気づいて、驚きの眼を見はった。
「火夫の松公だよ。何もかもこの松公の仕業だってことがわかったのだよ。早くこいつを引っくくっておくれ」
 黒衣婦人が援軍に力を得て、かん高い声をふりしぼった。
「なに、松公だって? こん畜生、ふざけたまねをしやがったな」
 男共はドカドカと檻の中へふみこんで、職工服の松公を捕えようとした。だが、なんという素早さであろう。松公はかさなり合って押し寄せてくる男どもの手の下を、ヒラリ、ヒラリとくぐり抜けて、アッと思う間に檻のそとに飛び出していた。そして、やっぱりニヤニヤ笑いながら、「ここまでお出《い》で」のかっこうで、手まねきをしながら、だんだんあとずさりをして行く。底の知れない不敵さである。
 黒衣婦人と荒くれ男どもとは、引かれるように檻を出て、ジリジリとそのあとを追っていく。無気味な移動撮影。コンクリート壁の地下道を、逃げるものはあとずさり、追うものは正面を切って、憤怒の形相物凄く、毛むくじゃらの腕をボクサーのように構えながら、ノソノソとせまって行く。
 やがて、この不思議な行列が、剥製人形陳列所の前にさしかかった時、職工服の松公は突然ピッタリと立ち止まってしまった。
「おい、君たち、なぜ北村が縛られていたか、そのわけを知っているかね」
 彼はやっぱり、のん気そうに両手をポケットに入れたまま、薄気味のわるい質問を発した。
「ちょっとおどき、あたし、この人にたずねたいことがあるんだから」
 黒衣婦人は何を思ったのか、男どもをかき分けるようにして、松公の眼の前に近づいて行った。
「もしお前が松公だったら、これほどの人物を見そくなっていたことを、心からお詫びするよ。だがお前ほんとうに松公なの? あたし考えれば考えるほど信じられない。あなたは松公やなんかじゃないでしょう。そのうるさいつけひげを取ってください。早くそのひげを取ってください」
 彼女はみじめにも、まるで嘆願するような口調であった。
「ハハハハハ、ひげなんか取らなくっても、君はもうちゃんと知っているでしょう。知っているけれど、僕の名を言い当てるのが怖いのでしょう。その証拠に、君の顔色はまるで幽霊みたいに青ざめているじゃありませんか」
 職工服ははたして松公ではなかった。言葉さえも、もはや盗賊の手下などのものではない。しかも、その声! その歯切れのよい口調には、何かしら耳なれた響きがあったではないか。
 黒衣婦人はあまりの激情に、身内がブルブルとふるえてくるのをどうすることもできなかった。
「それじゃあ、あなたは……」
「遠慮することはない。何をためらっているのです。言ってごらんなさい、その先を」
 職工服はもう笑っていなかった。彼のからだ全体に、何かしら厳粛《げんしゅく》なものが感じられた。
 黒衣婦人はジリジリと、腋《わき》の下を冷たいものが流れ落ちるのを覚えた。
「明智小五郎……あなたは明智さんでしょう」
 ひと思いにいってのけて、ホッとした。
「そうです。君はそれを、ずっと前から気づいていたではありませんか。気づきながら、君の臆病がその考えを無理に抑えつけていたのです」
 職工服の人物は、言いながら、顔じゅうの付けひげをむしり取った。すると、その下から現われてきたのは、潤ちゃんらしい顔色にメーク・アップはしていたけれど、まぎれもない明智小五郎、なつかしの明智小五郎であった。
「でも、どうして……そんなことがあり得るのでしょうか」
「あの遠州灘のまっただ中に、ほうりこまれた僕が、どうして助かったかというのでしょう。ハハハハ、君はあの時、この僕を、ほうりこんだつもりでいるのですか。そこに、根本的な錯覚があるのだ。僕はあの椅子の中にはいなかったのですよ。椅子の中へとじこめられていたのは、かわいそうな松公です。まさかあんなことになろうとは思わなかったので、僕は火夫に変装して探偵の仕事をつづけるために、松公を縛って、猿ぐつわをはめて、絶好の隠し場所、あの人間椅子の中へとじこめておいたのです。そのため、松公がああいう最期をとげたのは、実に申しわけないことだと思っています」
「まあ、それじゃあ、あれが松公でしたの? そして、あなたは松公に化けて、ずっと機関室にいらしったの?」
 さすがの女賊も毒気を抜かれて、まるで貴婦人のようにおとなしやかな口をきいた。
「それはほんとうでしょうか。でも、猿ぐつわをはめられていた松公が、どうしてあんなに物を言ったのでしょう。あの時、あたしたちは、クッションをへだてて椅子のそとと中とで、いろいろ話し合ったじゃありませんか」
「話をしたのは僕でしたよ」
「まあ、それじゃあ……」
「あの船室には、大きな衣裳戸棚がおいてありますね。僕はあの中にかくれて物をいっていたのだ。それが、君には椅子の中からのように聞こえたのですよ。現に椅子の中でモゴモゴしているやつがあるんだから、君が勘違いしたのも無理はないのです」
「すると、すると、早苗さんをどっかへ隠したのも、あの大阪の新聞を椅子の上へのせておいたのも、あんたの仕業だったのね」
「その通りです」
「まあ御念の入ったことだわね。新聞の偽造までして、あたしをいじめようとなすったの?」
「偽造? ばかなことを言いたまえ。あんな新聞が急に偽造なんかできるものか。あの記事もあの写真も、正真正銘の事実ですよ」
「ホホホホホ、いくらなんでも、早苗さんが二人になるなんて、そんなばかばかしい……」
「二人になったんじゃない。ここに誘拐されてきた早苗さんはにせものなんだよ。早苗さんの替玉を探すのに僕はどれほど骨を折ったろう。むろん無事に助け出す自信はあった。だが、親友の一粒種を、そんな危険にさらす気にはなれなかったのでね。君が早苗さんと信じ切っていたあの娘はね、桜山葉子という、親も身寄りもない孤児なんだよ。しかも少々不良性をおびたモダン・ガールなんだよ。不良娘なればこそ、この大芝居をまんまと仕こなすことができたし、あれほどの目にあってもがんばり通す胆っ玉があったのさ。葉子はあんなに泣いたりわめいたりしながらも、僕を信じ切っていた。僕が必らず救い出しにくるということを、確信していたのだよ。」
 読者諸君は、この物語りのはじめの方の「怪老人」という一章を記憶されるであろう。名探偵明智小五郎のぎまん作業は、実にあの時に行なわれたのであった。怪老人はつまり明智の変装姿にほかならなかった。そして、あの夜から、ほんとうの早苗さんは、明智だけが知っている、別の場所にかくまわれ、それと入れ違いに、早苗さんになりすました桜山葉子が岩瀬家に入りこんだのであった。その翌日から、早苗さんは一間にとじこもったきり、家人には顔を見られることさえいやがるそぶりを示した。岩瀬氏夫妻は早苗さんはうちつづく迫害に、一種の気鬱症になったものときめてしまって、彼女がにせものだなどとは疑いさえもしなかった。葉子の名優ぶりはこの時からして、すでに抜群であったのだ。
 名探偵の、意外につぐに意外をもってする物語を聞くにしたがって、黒衣婦人はもう、心底からこの大敵の前に兜《かぶと》をぬいだ。明智小五郎という一個不可思議の大人物を、心から崇拝したいほどの気持になっていた。だが、彼女の部下の無知な荒くれ男どもは、決して彼を崇拝しなかった。それどころか、首領にまんまと一ぱい喰わした不届き者として、かつは彼らの同僚松公を海底のもくずとした仇敵として、かぎりなき憎悪と憤激を感じた。
 彼らはこの長話をジリジリしながら聞いていたが、問答が一段落したとみるや、もう我慢ができなかった。
「めんどうだっ、やっつけてしまえ」
 一人の叫び声が導火線となって、総勢四人の大男が、孤立無援の名探偵めがけて飛びかかって行った。女賊の威望を以てしても、この勢いをはばむことはできなかった。
 うしろから喉をしめるもの、両手をねじ上げるもの、足を取って引き倒そうとするもの、いかな明智小五郎とて、この死にもの狂いの大敵には、全く力をふるうすべがなかった。あぶない、あぶない。せっかくここまでこぎつけて、最後のどたん場で、形勢逆転するようなことになるのではあるまいか。一代の名探偵も、ついにこの荒くれ男どものために、命を失うような羽目になるのではあるまいか。
 だが、実に奇妙なことには、この激情のさなかに、人もなげなる朗《ほが》らかな哄笑が響き渡ったのである。しかもその哄笑の主は、四人の男に組み敷かれた明智小五郎その人ではなかったか。これはまあなんとしたことだ。
「ワハハハハハ、君たち眼がないのか。よく見るがいい、ホラこのガラスの中をとくと見るがいい」
 ガラスというのは、例の剥製人形陳列場のショウ・ウインドウのようなガラス張りのことにちがいない。
 人々は思わずその方に眼をやった。彼らはうかつにも、そのガラス張りの中に、どんなことが起こっているか、少しも気づかなかったのだ。激情のせいもある。それに、格闘の行なわれた場所からは、陳列所が斜め向こうになっていたために、眼が届かなかったせいもある。
 見ると、そのガラス張りの中には、またしても驚くべき異変が起こっていた。人形どもが、今度は揃いも揃って、男の背広服を着せられていたではないか。剥製の男女が、元のままの姿勢で、しかつめらしい背広服を着て、すまし返っているのだ。
 むろん明智の仕業にちがいないのだが、一度ならず二度までも、なんというつまらないいたずらをしたものであろう。だが、待てよ。明智ともあろうものが、そんな無意味ないたずらをするはずはない。この奇妙な衣裳の着せかえにも、また何か、途方もない意味があったのではあるまいか。
 最も早くそれに気づいたのは、さすがに黒衣婦人であった。
「アッ、いけない」
 愕然《がくぜん》として逃げ腰になるすきもなく、人形どもがムクムクと起き上った。衣裳だけが変っていたのではない、中身までも全く別物と置きかえられていたのだ。そこには剥製人形ではなくて、生きた人間が、さも人形らしいポーズを取って、時機のくるのを待ちかまえていたのだ。見よ、背広の男どもの手には、例外なくピストルがにぎられ、その筒口が盗賊たちに向けられているではないか。
 たちまち「ガチャン」と物のこわれる音、ショウ・ウインドウのガラスにポッカリと大きな穴があいた。その穴から背広の男たちが素早く飛び出してくる。
「御用だっ、『黒トカゲ』神妙にしろ」
 恐ろしく大時代な叱咤《しった》の声が鳴り響いた。現代の警察官にもこの有効な掛け声は、案外しばしば使用されているのだ。いうまでもなく背広の人たちは、明智の手引きで地底に侵入した、警視庁の腕利き刑事の一団であった。
 さいぜん明智は、入り口の張り番をしていた北村だけが、なぜ縛られたのか、その意味がわかるかとたずねたが、それは暗に警察官の来援をほのめかしたのであった。入り口をひらかせる合図の信号は、明智から電話で警視庁に知らせてあった。その信号によって、刑事たちはなんなく地底にはいることができたのだ。そして入り口をはいると同時にそこの見張り番の北村を適当に処理したまでのことであった。内部から明智が手伝ったことはいうまでもない。さっき、しばらく、潤ちゃんが行方不明になっていたあいだの出来事だ。では、彼らはなぜすぐさま、「黒トカゲ」の逮捕に向かわなかったのか。それは、この捕物を充分効果的にするための、明智の指図であった。刑事とて、洒落を解せぬ朴念仁《ぼくねんじん》ばかりではないのである。
 いうまでもなく別の一隊は、水上署と協力して海上の賊船に向かっていた。もう今頃は、「黒トカゲ」の部下たちは、汽船もろとも一人残さず召捕られていることに違いない。
 地底の賊徒も、たちまちにして、刑事たちのピストルの前に頭を下げた。さしもに獰猛《どうもう》な荒くれ男どもも、この悪夢のような不意打ちには、どう手向かいするすきもなく、ことごとく縄をかけられてしまった。まっぱだかの潤ちゃんも例外ではなかった。だが、首領の「黒トカゲ」だけは、さすがに敏捷であった。まっ先に背広人形の意味を悟った彼女は、逃げ足も早く、一人の刑事につかまれた腕を振り切って、飛鳥《ひちょう》のように、廊下の奥の彼女の私室へ逃げこんで、中から鍵をかけてしまった。

うごめく黒トカゲ

 黒衣婦人は、地底王国の女王のほこりからも、縄目の恥に堪えかねたのであろう。いずれ逃がれぬ運命とはいえ、せめて最期をいさぎよく、密室にとじこもって、われとわが命を絶とうとしたにちがいない。それと気づいた明智小五郎は、騒がしい捕物の場をあとにして、単身彼女の私室に駈けつけた。
「おい、あけたまえ。僕は明智だ。一こと言いたいことがある。ぜひここをあけてくれたまえ」
 急がしく叫ぶと、中から力ない声が答えた。
「明智さん、あなたお一人だけならば……」
「ウン、僕一人だよ。早くあけてくれたまえ」
 鍵を廻す音がした。ドアがひらいた。
「アッ、おそかった……君は毒を呑んだのか」
 ふみこみざま、明智が叫んだ。黒衣婦人は、やっとドアをあけたまま、その場に打ち倒れていたのである。
 明智は床にひざまずいて、その膝の上に女賊の上半身をかかえのせ、せめては断末魔の苦悩をやわらげてやろうと試みた。
「今さら何をいっても仕方がない。安らかに眠りたまえ。君のためには、僕は命がけの目にもあわされた。しかし、僕の職業にとっては、それが貴重な体験にもなったのだよ。もう君を憎んでやしない。かわいそうにさえ思っている……ああ、そうそう、君に一ことことわっておかねばならぬことがあった。君があれほど苦心をして手に入れた品だけれど、岩瀬さんの『エジプトの星』は、たしかに僕があずかって帰るよ。むろん本来の持ち主にお返しするためにだ」
 明智はポケットから大宝玉を取り出して、女賊の眼の前にかざした。「黒トカゲ」はしいて微笑を浮かべ、二、三度うなずいて見せた。
「早苗さんは?」
 彼女はしおらしくたずねるのだ。
「早苗さん? ああ、桜山葉子のことだね。安心したまえ。香川君と一しょに、もうこの穴蔵を出て、警察の保護を受けている。あの娘にも苦労をかけた。今度大阪へ帰ったら、岩瀬さんから充分謝礼をしてもらうつもりだよ」
「あたし、あなたに負けましたわ。なにもかも」
 戦いに敗れただけではない。もっと別な意味でも負けたのだということを、言外に含ませていうと、彼女はすすり泣きはじめた。もううわずった両眼から、涙がとめどもなくあふれ落ちた。
「あたし、あなたの腕に抱かれていますのね……嬉しいわ……あたし、こんな仕合わせな死に方ができようとは、想像もしていませんでしたわ」
 明智はその意味をさとらないではなかった。一種不可思議な感情を味わわないではなかった。しかしそれは口に出して答えるすべのない感情であった。
 断末魔の女賊の告白は謎のごとく異様であった。彼女はこの仇敵を、彼女自身も気づかずして、愛しつづけていたのであろうか。それ故にこそ、闇の洋上に明智を葬った時、あのように烈しい感情におそわれ、あのように涙をこぼしたのであろうか。
「明智さん。もうお別かれです……お別かれに、たった一つのお願いを聞いてくださいません? ……唇を、あなたの唇を……」
 黒衣婦人の四肢はもう痙攣《けいれん》をはじめていた。これが最期だ。女賊とはいえ、この可憐《かれん》な最期の願いをしりぞける気にはなれなかった。
 明智は無言のまま、「黒トカゲ」のもう冷たくなった額にソッと唇をつけた。彼を殺そうとした殺人鬼の額に、いまわの口づけをした。女賊の顔に、心からの微笑が浮かんだ。そして、その微笑が消えやらぬまま、彼女はもう動かなくなっていた。
 そこへ、捕物をすませた刑事たちが、ドヤドヤとはいってきたが、一と眼この不思議な情景を見ると、入り口に立ちすくんでしまった。鬼といわれる刑事たちにも感情はあった。彼らは何かしら厳粛なものにうたれて、しばらく物いう力さえ失ったのである。
 一世を震撼《しんかん》せしめた稀代の女賊「黒トカゲ」は、かくして息絶えたのであった。名探偵明智小五郎の膝を枕に、さも嬉しげな微笑を浮かべながら、この世を去ったのであった。
 ふと見ると、さいぜん刑事の手を振りはらって逃げた時、黒衣の袖が破れたのであろう。美しい二の腕があらわになって、そこに、彼女のあだ名の由来をなした、あの黒トカゲの入墨が、これのみは今もなお生あるもののごとく、主人との別離を悲しむかのように、かすかに、かすかに、うごめいているかに感じられたのである。


原文 青空文庫より引用
入力: sogo
校正: 大久保ゆう

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