黒蜥蜴 / 江戸川乱歩(3)

魔術師の怪技

 酔っぱらい騒ぎがあってから二時間ほど後《のち》、急報に接して大阪から帰った岩瀬氏と明智小五郎とが、主人の居間で、この不可解な出来事について、あわただしい会話を取りかわしていた。そのそばには岩瀬夫人と婆やとがひかえ、責任者の二人の書生も呼び出されて、かしこまっている。
「失策でした。僕はまたしても油断しすぎたようです」
 明智はいかにも申しわけがないという様子であった。
「いやいや、あなたの失策じゃない。これは全くわしがわるかったのです。娘があまり沈みこんでいるものだから、ついかわいそうになって、応接間などへ連れ出したのがわるかったのです。油断といえば、わしこそ、全く油断をしておりましたよ」
「わたくしたちも不注意でございました。書生にまかせておいて安心していたのがいけませんでした」
 岩瀬夫人も同じようなことをいう。
「しかし、そういうことは今さら言ってみても仕方がありません。それよりも、われわれは、お嬢さんがいつ応接室を出られたか、そしてどこへ連れ去られたか、その点を確かめなければなりません」
 明智が返らぬ繰り言を打ち切るようにいった。
「さあ、それですて。そこがわしにはどうも解《げ》せんのじゃが、おい倉田、お前たちはわき見をしていたんじゃあるまいな。お嬢さんがあの部屋を出て行くのを、気がつかなかったのじゃあるまいな」
 岩瀬氏がたずねると、倉田と呼ばれた書生の一人は、少し憤慨の面持《おももち》で答えた。
「いや、断じてそんなことはありません。僕らは、ちゃんとドアの方を見張りつづけていたのです。それに、お嬢さんが応接間からほかの部屋へいらっしゃるためには、どうしても僕らの立っている廊下を通らなければならないのです。いくらなんでも、お嬢さんが眼の前をお通りなさるのを、僕らが見のがしたはずはありません」
「フン、お前たちはそんな生意気なことをいうが、それじゃ、どうしてお嬢さんがいなくなったのだ。それとも、お嬢さんはあの頑丈な鉄格子を破って飛び出して行ったとでもいうのか。え、どうだね。鉄格子がはずれてでもいたかね」
 岩瀬氏は感情が激すると、つい憎まれ口を利くくせがあるようだ。
 書生はたちまち恐縮して、頭をかきながら、わかり切ったことを正直に答える。
「いえ、鉄格子どころか、ガラス窓さえも、掛け金をはずした形跡はありませんでした」
「それ見ろ、それじゃ、つまりお前たちが見逃がしたことになるじゃないか」
「まあお待ちください。どうもこの人たちが見逃がしたようにも思われません。見逃がしたといえば、お嬢さんだけではなくて、あの酔っぱらいが応接間へはいるところも見逃がしているわけです。いくら不注意でも、二人もの人間が出たりはいったりするのを気づかないでいるというのは、どうもありそうもないことですな」
 明智が考え考え言った。
「いかにもありそうもないことです。だが、それがあったのじゃ」
 岩瀬氏はなおも毒口をたたく。明智はそれにかまわずつづけた。
「鉄格子も破れていない。書生さんたちも見逃がしていないとすると、結論はたった一つ、あの応接室へはいったものも、出たものもなかったということになります」
「フフン、すると、早苗がその酔っぱらいに化けたのだとでもおっしゃるのですね。冗談じゃない、わしの娘は役者じゃありませんぜ」
「御主人、あなたはお嬢さんに、新らしくできた椅子をお見せなすったのですね。その椅子はきょう届けられたのですか」
「そうです。あんたが出かけられて間もなく届いたのです」
「妙ですね。あなたは、その椅子が届いたのと、お嬢さんの誘拐とのあいだに、何か偶然でないつながりがあるようには思われませんか。僕にはなんだか……」
 明智はそう言いかけたまま、眼を細くして、しばらく考えに沈んでいたが、ハッと顔を上げると、何かしら意味のわからぬことを口走った。
「人間椅子……あんな小説家の空想が、はたして実行できるのだろうか」
 そして、彼はスックと立ちあがると、何か非常に昂奮した様子で、人々に挨拶もせず、いきなり部屋を出て行ってしまった。
 人々は、名探偵の突飛な行動に、あっけにとられて、しばらくは口を利くものもなくぼんやりと顔を見合わせていたが、すると、たちまち明智の駈けもどってくる足音がして、廊下からどなるのが聞こえた。
「長椅子をどこへやったのです。応接間に見えないじゃありませんか」
「まあ、明智さん、落ちついてください。椅子なんかどうだっていい、わしたちはいま娘のことを心配しているのだ」
 岩瀬氏が声をかけると、明智はやっと部屋の中へはいってきたが、まだ立ちはだかったまま同じことをくり返す。
「いや、僕は長椅子の行方が知りたいのです。どこへやったのですか」
 すると書生の一人が、それに答えた。
「あれは、つい今しがた、家具屋の職人が受取りにきたので、渡してやりました。張りかえさせるようにという、奥様の言いつけだったものですから」
「奥さん、それはほんとうですか」
「ええ、酔っぱらいが破いたり、よごしたりして、あんまりむさいものですから、急いで取りにこさせましたの」
 岩瀬夫人が、まだそれとも気づかないで、とりすまして答える。
「そうでしたか、ああ、困ったことをしてしまったなあ。もう取り返しがつかない……いやもしかしたら、そうだ、もしかしたら、僕の思いちがいかもしれない。ちょっとそのお電話を拝借します」
 明智は気違いめいたことをブツブツつぶやいていたかと思うと、いきなりそこの卓上電話にしがみついて、受話器を取った。
「君、その家具屋の電話番号を教えてくれたまえ」
 書生がそれに答えるのを、口写しに、明智は交換手へとどなった。
「ああ、N家具店ですか。こちらは岩瀬の屋敷です。さいぜん長椅子を取りによこしてくれたのだが、あれはもう君の方へ着きましたか」
「へえ、へえ、長椅子を、かしこまりました。どうもおそくなってすみません。実はいま店のものを伺わせようと思っておりましたところでございます」
 受話器の向こうから頓狂な返事が聞こえてきた。
「えっ、なんだって? これから取りにくるんだって? 君、それはほんとうかい。こちらでは、もうさっき渡してしまったのだが」
 明智がもどかしそうにどなり返す。
「へええ、そんなはずはございませんがな。手前どもではだれもまだお屋敷へ伺っておりませんのですが」
「君は御主人かね。しっかり調べてくれたまえ。もしや君の知らぬ間に、だれかこちらへきたんじゃありませんか」
「いいえ、そんなことはございません。まだわたくしは、お屋敷へ伺うことを、店の者に伝えておりませんので、伺う道理がありません」
 そこまで聞くと、明智はガチャンと受話器をかけて、また立ちあがって、どこかへ駈け出しそうにしたが、思いなおして、今度は土地の警察署へ電話をかけ、捜査主任を呼び出した。明智は、岩瀬家の客となった最初の日、先ずこの捜査主任と懇意を結んでおいたので、この場合それが充分役立った。
「僕は岩瀬家の明智ですが、例の酔っぱらいがよごした長椅子ですね、あれを、家具屋の名をかたって屋敷から持ち出し、トラックに積んで逃げ出したやつがあるのです。どちらへ走ったかはわかりませんが、至急手配をして、そいつを捉えてくださいませんか……そうです、そうです。あの長椅子です……人間椅子、ええ、人間椅子。いや、じょうだんなもんですか……ええ、そうでしょう。ほかに考え方がないじゃありませんか。ではお願いします。僕の見こみは、決して間違っていないと思います。いずれあとからくわしくお話ししますけれど」
 そうして電話を切ろうとすると、今度は先方から、意外な報告がもたらされた。
「えっ、逃亡した。そいつは非常な手抜かりですね……酔っぱらいと思って油断していた? ウン、それは無理もないけれど、あいつ飛んだ喰わせものですぜ。『黒トカゲ』の手下にきまっている。惜しいことをしましたね。まだつかまりませんか。何分よろしく、全力をつくしてください。人の命にかかわることだ……二つともね。長椅子の方も、酔漢の方も……ではまた後ほど」
 ガチャリと受話器の音。明智はガッカリしたように、そこにうずくまってしまった。一座の人々は異常な緊張で電話の声に聞き入っていた。そして、一句ごとに、この名探偵の突飛《とっぴ》な行動の理由がわかって行くように思われた。
「明智さん、お話しの様子で、大体わしにも事の次第がわかりました。わしはあんたの御明察に驚き入りました。いや、それにもまして、賊のこの思いきった、ズバぬけた手品には、あいた口がふさがりませんよ。つまり、あの酔っぱらいをよそおった男が、仕かけをした長椅子の内部にかくれて、どっかで家具屋の作った本物とすりかえたのですね。そして、応接間には、人間のはいった長椅子がすえてあったというわけですね。そこへ早苗がはいって行く……男が椅子の中からソッと抜け出して娘を……明智さん、あいつはまさか娘を殺したのでは……」
 岩瀬氏は、ギョッとして言葉を切った。
「いや、決して殺すようなことはありません。Kホテルの場合でもわかっている通り、あいつは生きたお嬢さんをほしがっているのです。」
 明智が安心させるように答える。
「ウン、わしもそうとは思いますがね……それから、正気を失った娘を、今まで自分のひそんでいた長椅子の内部のうつろの中へ入れて、蓋をしめる。そして、あいつめ長椅子の上に寝そべって酔っぱらいのまねをはじめたのですね。しかし、あのよごれもの」
「ああ、お見事です。御主人も『黒トカゲ』にまけない空想家ですね。僕の考えもその通りなのです……あいつの恐ろしさは、こういうズバぬけた考え方によって、ばかばかしいトリックを、平然として実行する肝っ玉にあるのです。今度の着想などは全くおとぎ話ですよ。或る小説家の作品に『人間椅子』というのがあります。やっぱり悪人が椅子の中へかくれて、いたずらをする話ですが、その小説家の荒唐無稽《こうとうむけい》を、『黒トカゲ』はまんまと実行して見せました。今お話しのよごれものにしてもそうですよ。あらかじめそういう液体を用意しておいて、口からではなく瓶から長椅子の上にぶちまけたのです。ええ、瓶ですよ。ほら、あのウイスキーの大瓶、あの中に残っている液体を調べたら、きっとヘドの匂いがすることでしょう。それとても、実は昔々の西洋のおとぎ話にある手なのです。そのおとぎ話の方は、ヘドではなくて、もっときたないものでしたがね」
「で、あの酔っぱらいは、警察の留置場から逃げ出してしまったとか……」
「ええ、逃げ出したそうです。酔っぱらいも長椅子も、おとぎ話のように、どっかへ消え失せてしまいました」明智は思わず苦笑したが、またキッとなって付け加えた。「しかし、御主人、僕はいつかKホテルでお約束したことを忘れはしません。御安心ください。命にかけても、お嬢さんを守ります。決して取り返しのつかぬようなことはしないつもりです。どうか僕を信じてください……僕の顔色を見てください。青ざめてますか。心配らしい影でも見えますか。そうではないでしょう。僕は平気なのです。この通り平気なのです」
 明智はそういって、にこやかに笑って見せた。虚勢とは思えない。彼は真から微笑しているのだ。人々は、頼もしげに、明かるい名探偵の顔を見上げた。

「エジプトの星」

 宝石商令嬢誘拐事件は、その翌日の新聞記事によって、全国に知れわたった。土地の警察はもちろん、大阪府の全警察力をあげて早苗さんの行方捜索が行なわれた。デパートの陳列所でも、家具商のショウ・ウィンドウでも、駅々の貨物倉庫でも、長椅子という長椅子が無気味な嫌疑を受けた。神経質な人たちは、自宅の応接間のソファにさえも、一応底のぐあいをあらためないでは、腰かける気になれなかった。
 そうして、事件からまる一昼夜が経過したけれど、人間詰め長椅子の行方は少しも知れなかった。生きているのか死んでしまったのか、美しい早苗さんの姿は、全くこの世からかき消されてしまったように感じられた。
 岩瀬氏や、夫人などの歎きはいうまでもなかった。早苗さんを危地にみちびいたのも、賊を見逃がしたのも、全く岩瀬氏夫妻の手落ちであって、誰を恨むこともなかったが、悲しみのあまり、憤《いきどお》りのあまり、つい度を失って、明智探偵の不用意な外出を、責めたい気持にもなるのであった。
 明智はむろんその気持を察しないではなかった。また彼自身としても、名探偵の名にかけて、この誘拐事件に責任を感じ、取りかえしのつかぬ油断をくやまないわけではなかった。それにもかかわらず、さすがは百戦錬磨の勇将、彼は深く心に期するところあるもののごとく、少しも狼狽はしなかった。
「岩瀬さん、僕を信じてください。お嬢さんは安全です。必らず取り返してお眼にかけます。それに、賊の手中にあっても、お嬢さんは決して危害を加えられることはありません。あいつらはきっと、早苗さんを大切な宝物のように扱っているでしょう。そうしなければならない理由があるのです。少しもご心配なさることはありません」
 明智は岩瀬氏夫妻に、繰り返し繰り返しこういう意味のことを言ってなぐさめた。
「だが、明智さん。取り返すといっても、娘は今どこにいるのですかね。あれのありかが、あんたにわかっているとでもおっしゃるのかね」
 岩瀬氏は、またしても例の毒口をきいた。
「そうです。わかっているといってもいいかもしれません」
 明智は動《どう》じない。
「フン、じゃ、なぜそこへ取り戻しに行ってはくださらんのかね。見ていると、あんたは、きのうからまるで警察まかせで、何もしないで手をつかねていなさるようじゃが、そんなにわかっていれば、早く適当な処置を講じてほしいものですね」
「僕は待っているのですよ」
「え、待っているとは?」
「『黒トカゲ』からの通知をです」
「通知を? それはおかしい。賊が通知をよこすとでもおっしゃるのかね。どうかお嬢さんを受取りにきてくださいといって」
 岩瀬氏は、憎まれ口をきいて、フフンと鼻さきで笑って見せた。
「ええ、そうですよ」名探偵は子供のように無邪気である。「あいつはお嬢さんを受取りにこいという通知をよこすかもしれませんよ」
「え、え、あんた、それは正気でいっていなさるのか。なんぼなんでも、賊がそんなことを……明智さん、この場合、冗談はごめんこうむりますよ」
 宝石王がにがにがしく言い放った。
「冗談ではありません。今にきっとおわかりになりますよ……ああ、ひょっとしたら、そのなかに通知状がまじっているかもしれません」
 彼らはその時、例の早苗さんの誘拐された応接間に対坐していたのだが、ちょうどそこへ、書生の一人が、その日の第三便の来翰《らいかん》をまとめて持ってきたのであった。
「このなかにですか? 賊の通知状がですか?」
 岩瀬氏は書生から数通の手紙を受取って、何をばかばかしいといわぬばかりに、うわの空の返事をしながら、一つ一つ差出人をしらべていたが、たちまちハッとして頓狂な声を立てた。
「やあ、こりゃなんじゃ。この模様はいったいなんじゃ」
 それは上等の洋封筒に包まれた一通の手紙であったが、見ると、その裏面には、差出人の名はなくて、封筒の左下の隅に、一匹のまっ黒なトカゲの模様が、たくみにえがかれてあった。
「『黒トカゲ』ですね」
 明智は少しも驚かない。それごらんなさいといわぬばかりだ。
「『黒トカゲ』じゃ。大阪市内の消印がある」岩瀬氏はさすがに商人らしい眼早さで、それを見て取った。「ああ、明智さん、あんたには、これがどうしてあらかじめわかっていたのです。確かに賊の通知状じゃ。フーン、これはどうも……」
 彼は感にたえたように、名探偵の顔をみつめている。怒りっぽいかわりには、機嫌のなおるのも早い老人であった。
「ひらいてごらんなさい。『黒トカゲ』はなにかを要求してきたのですよ」
 明智の言葉に、岩瀬氏は注意深く封を切って、中の書翰箋をひろげて見た。なんの印もない純白の用紙である。そこに下手な書体で――なんとなくわざと下手に書いたような書体で――次の文句がしたためてあった。

 昨日はお騒がせして恐縮。お嬢さんはたしかにお預かりしました。警察の捜索からは絶対に安全な場所におかくまいしてあります。
 お嬢さんを私からお買い戻しになるお気持はありませんか。もしそのお気持があるのでしたら、左の条件によって商談に応じてもよいと考えます。
(代金)ご所蔵「エジプトの星」一個。(支払期日)明七日正午後五時。(支払場所)T公園通天閣頂上の展望台。(支払方法)岩瀬庄兵衛氏単身にて右時間までに通天閣上に現品を持参すること。
 右の条件に少しでも違背したる場合、またはこのことを警察に告げ知らせたる場合、または現品授受ののち私を捕縛させようとしたる場合は、令嬢の死を以てこれにむくいること。
 右の条件が正確に履行された上は、その夜のうちにお嬢さんをお宅まで送り届けます。右貴意を得ます。御返事には及びません。明日所定の時間、所定の場所へ御いでなき限りは、この商談不成立と認め、ただちに予定の行動に移ります。以上
[#地から2字上げ]黒蜥蜴
[#2字下げ]岩瀬庄兵衛様

 これを読み終ると、岩瀬氏は当惑の色を浮かべて考えこんでしまった。
「『エジプトの星』ですか」
 明智がそれと察してたずねる。
「そうです。困ったことになりました。あれはわしの私有にはなっているが、国宝ともいうべき品物で、いまわしい賊の手などに渡したくはないのです」
「非常に高価なものと聞いていますが」
「時価二十万円です。だが、二十万円には替えられない宝です。あんたは、あの宝石の歴史をご存知ですか」
「ええ、聞き及んでいます」
 この国最大最貴のダイヤモンド「エジプトの星」は、南アフリカ産、ブリリアント型、三十幾カラットの宝玉であって、その名の示すごとく、かつてはエジプト王族の宝庫に納まっていたものだが、それが欧洲諸国の高貴の方々の手を渡り渡って、第一次大戦当時、或る事情から宝石商人の手に移り、それがまた転々して、つい数年前のこと、岩瀬商会パリ支店の買収するところとなり、現在は大阪本店の所有となっている。
「由緒の深い宝石じゃ。わしはあれを命から二番目ぐらいに大切に思っております。盗難についても用心に用心をかさね、その宝石を納めてある場所は、わし自身のほかに、店員はもちろん家内さえ知らないのです」
「すると、つまり、賊にしては、一個の宝石を盗むよりも、生きた人間を盗み出す方が、たやすかったというわけですね」
 明智はしきりにうなずいている。
「そうです。『エジプトの星』はたびたび盗賊に狙われた。そのたびごとにわしはかしこくなったのです。そして、とうとう、そのかくし場所をわしだけの秘密にしてしまった。どんなにえらい盗賊でも、わしの頭の中の秘密を盗むことはできませんからね……しかし、その苦心も今はむだじゃ。さすがのわしも、娘の身代金として宝石をゆするという手には、少しも気がつかなんだ……明智さん、いかな宝物でも、人間の命にはかえられませんわい。残念じゃが、わしはあきらめました。宝石を手ばなすことにしましょう」
 岩瀬氏は青ざめた顔で決意のほどを示した。
「それほどのものを手ばなすことはありませんよ。なあに、こんな脅迫状なんか黙殺してもかまわないのです。お嬢さんの命《いのち》にかかわるようなことは断じてありません」
 明智が頼もしくなぐさめても、一徹の岩瀬氏は彼の言葉を信用しない。
「いやいや、あの恐ろしい悪党は、何を仕でかすか知れたものではない。いくら高価とはいえ、たかが鉱物です。鉱物などを惜しんで、娘に万一のことがあっては取り返しがつきません。わしはやっぱり賊の申し出に応ずることにしましょう」
「それほどの御決心なれば、僕はお止めしません。一応敵のたくらみにかかったと見せかけて、宝石を手渡すのも一策でしょう。僕の探偵技術からいえば、むしろその方が便宜なのです。しかし岩瀬さん、決してご心配なさることはありません。僕はハッキリお約束しておきます。お嬢さんもその宝石も、必らず僕の手で取り戻してお眼にかけますよ。ただちょっとのあいだ、あいつにぬか喜びをさせてやるだけです」
 明智はなんの頼むところあってか、自信に満ちた力強い口調で、こともなげに言い切るのであった。

塔上の黒トカゲ

 その翌日、約束の午後五時少し前、岩瀬庄兵衛氏は、文字通り敵の条件を守って、明智以外のなにびとにも告げず、ただ一人、T公園の入口、天空高くそびえる鉄塔の下にたどりついた。
 T公園といえば、その地域の広さ、日々|呑吐《どんと》する群衆のおびただしさでは、大阪随一の大遊楽境であった。立ち並ぶ劇場、映画館、飲食店、織るがごとき雑沓、露天商人の叫び声、電蓄の騒音、子供の泣き声、数万の靴と下駄とのかなでる交響楽、蹴立てる砂ぼこり。そのまん中に、パリのエッフェル塔を模した通天閣の鉄骨が、大大阪を見おろして、雲にそびえているのだ。
 ああ、なんという大胆不敵、なんという傍若無人、女賊「黒トカゲ」は、選《よ》りに選《よ》って、この大歓楽境のまっただ中、衆人環視の塔上を、身代金授受の場所と定めたのであった。このお芝居気、この冒険、あの黒衣婦人でなくてはできない芸当である。
 岩瀬氏は神経の太い商人ではあったけれど、いよいよ賊と対面するかと思うと、胸騒ぎを禁じ得なかった。彼は少しばかり固くなって塔上へのエレベーターにはいった。
 エレベーターの上昇とともに、大阪の街がグングン下の方へ沈んで行く。冬の太陽はもう地平線に近く、屋根という屋根の片側は黒い影になって、美しい碁盤模様をえがいていた。
 やっと頂上に達して、四方見晴らしの展望台に出ると、下界ではそれほどでもなかった冬の風が、ヒューヒューと烈《はげ》しく頬を打った。冬の通天閣は不人気だ。それに夕方のせいもあって、展望台には一人の遊覧客も見えなかった。
 風よけの帆布《ほぬの》を張りめぐらした、菓子や果物や絵葉書などの売店に、店番の夫婦者が寒そうに坐っているほかには全く人影はなく、何かこう、人界をはなれて、天上の無人の境へ来たような、物さびしい感じであった。
 欄干《らんかん》にもたれて、下界をのぞくと、ここのさびしさとは打って変った雑沓の、数千匹の蟻の行列のような人通りが、足もとにくすぐったく眺められた。
 そうして寒風に吹きさらされながら、しばらく待っていると、やがて次のエレベーターが到着して、ガラガラと鉄の扉のひらく音とともに、一人の奥様らしいよそおいの、金縁の目がねをかけた和服の婦人が、展望台に現われ、ニコニコ笑いながら、岩瀬氏の方へ近づいて来た。
 今時分、このさびしい塔上へ、こんなしとやかな婦人が、たった一人でのぼってくるなんて、なんとなくそぐわぬ感じであった。
「物ずきな奥さんもあるものだ」
 と、ボンヤリ眺めていると、驚いたことには、その婦人がいきなり岩瀬氏に話しかけたのである。
「ホホホホホ、岩瀬さん、お見忘れでございますか。わたくし東京のホテルでご懇意願いました緑川でございますわ」
 ああ、ではこの女が緑川夫人、すなわち「黒トカゲ」であったのか。なんという化物だ。和服を着て、目がねをかけて、丸髷《まるまげ》なんかに結って、まるで相好《そうごう》が変っているではないか。このしとやかな奥様が、女賊「黒トカゲ」であろうとは。
「…………」
 岩瀬氏は、相手の人を喰ったなれなれしさに、烈しい憎悪を感じて、だまったままその美しい顔をにらみつけていた。
「このたびはどうも飛んだお騒がせをいたしまして」
 彼女はそういって、まるで貴婦人のように、上品なお辞儀をした。
「何もいうことはない。わしは君の条件を少しもたがえず履行した。娘は間違いなく返してくれるのだろうね」
 岩瀬氏は相手のお芝居に取り合わず、用件だけをぶっきらぼうに言った。
「ええ。それはもう間違いなく……お嬢さん大へんお元気でいらっしゃいます。どうかご安心あそばして……そして、あの、お約束のものはお持ちくださいましたでしょうか」
「ウム、持ってきました。さあ、これです。しらべて見るがいい」
 岩瀬氏は懐中から、銀製の小函《こばこ》を取り出して、思い切ったように、夫人の前につきつけた。
「まあ、ありがとうございました。では、ちょっと拝見を……」
「黒トカゲ」は落ちつきはらって、小函を受取り、袖のかげで蓋をあけて、白ビロードの台座におさまった巨大な宝石を、じっと見入った。
「ああ、なんてすばらしい……」
 みるみる、彼女の顔に歓喜の血がのぼった。稀代の宝石には、千枚張りの女賊の顔をさえあからめさせる、神秘の魅力がこもっていたのだ。
「五色の焔、ほんとうに五色の焔が燃えているようでございますわね。ああ、わたくし、どんなに恋いこがれていたことでしょう。この『エジプトの星』に比べては、わたくしが長年収集しました千|顆《か》に近いダイヤモンドも、まるで石ころ同然でございますわ。ほんとうにありがとうございました」
 そしてまた、彼女はうやうやしく一礼をするのであった。
 相手が喜べば喜ぶだけ、岩瀬氏の方では、命から二番目とまで大切にしていた宝物を、むざむざこの女に奪われてしまうのかと思うと、覚悟はしながらも、言い知れぬ憎しみが感じられて、眼の前にとりすましている女が、一そう憎々しく見えてくる。すると、例の庄兵衛老人のくせで、こんな場合にも、つい憎まれ口がききたくなるのだ。
「さあ、これで代金の支払いはすんだ。あとは君の方から品物がとどくのを待つばかりだが、わしは君をこんなに信用していいのかしらん。相手は泥棒なんだからね。泥棒と前金取引をするなんて、実に危険千万な話だ」
「ホホホホホ、それはもう間違いなく……では、お先にお引き取りを、わたくし、一と足あとから帰らせていただきます。」
 女は相手の毒口にとりあわず、この奇妙な会見を打ち切ろうとした。
「フフン、品物を受取ってしまえば、御用はないとおっしゃるのだね……だが、君もいっしょに帰ったらいいじゃないか。わしといっしょにエレベーターに乗るのはいやかね」
「ええ、わたくしもごいっしょしたいのは山々なんですけれど、何を申すにも、お尋ね者のからだでございますから、あなたが無事にお帰りなさるのを、よく見届けました上でなくては……」
「危険だというのだね。わしが尾行でもすると思っていなさるのか。ハハハハハ、これはおかしい、君はわしが怖いのかね。それでよく、こんなさびしい場所で、わしと二人きりで会見しなすったね。わしは男だよ。もし、もしだね、わしが娘の一命を犠牲にして、天下に害毒を流す女賊を捕えようと思えば、なんのわけもないことだぜ」
 岩瀬氏は女の小面憎さに、ついいやがらせをいってみたくなった。
「ええ、ですから、わたくし、ちゃんと用意がしてございますの」
 ピストルでも取り出すのかと思うと、そうではなくて、彼女はツカツカと売店の方へ歩いて行って、そこに並べてあった賃貸しの双眼鏡を持ってきた。
「あすこにお湯屋の煙突がございますわね。あの煙突のすぐうしろの屋根の上をごらんなすってくださいまし」
 彼女はその方を指し示して、双眼鏡を岩瀬氏に手渡すのであった。
「ホウ、屋根の上に何かあるのかね」
 岩瀬氏はふと好奇心にかられて、双眼鏡を眼に当てた。塔から三町ほどへだたった、長屋の大屋根である。湯屋の煙突のすぐうしろに物干台が見え、その物干台の上に、一人の労働者みたいな男が、うずくまっているのがハッキリ眺められる。
「物干台に洋服を着た男がおりますでしょう」
「ウン、いるいる。あれがどうかしたのかね」
「よくごらんくださいまし。その男が何をしていますか」
「や、これは不思議じゃ。先方でも双眼鏡を持って、こちらを眺めているわい」
「それから、片方の手に何か持っておりませんですか」
「ウンウン、持っている。赤い布のようなものじゃ。あの男はわしたちを見ているようだね」
「ええ、そうですの。あれはわたくしの部下でございますのよ。ああしてわたくしたちの一挙一動を見張っていて、もしわたくしに危険なことでも起こりました場合には、赤い布を振って、別の場所からあの大屋根を見つめているもう一人の部下に通信します。すると、その部下が、お嬢さんのいらっしゃる遠方の家へ電話で知らせます。その電話と一しょに早苗さんのお命がなくなるという仕かけなのでございます。ホホホホホ、賊などと申すものは、ちょっとした仕事にも、これだけの用意をしてかからなければならないのでございますわ」
 なるほど実にうまい思いつきである。女賊が不便な塔の上を、会見の場所に選んだ一つの意味はここにあったのだ。まったく安全な遠方から見張りをさせておくなんて、平地では不可能なことなのだから。
「フン、ご苦労千万なことじゃ」
 岩瀬氏はへらず口をたたいたものの、内心では、寸分も抜け目のない女賊の用心を讃嘆しないではいられなかった。

奇妙な駈落者

 だが、岩瀬氏がいわれるままに、一と足先に塔を降りて、少しはなれた場所に待たせてあった自動車に乗って立ち去ってしまっても「黒トカゲ」はまだ安心ができなかった。
 相手には明智小五郎といういやなやつがついているのだ。あいつが、どんな智恵をしぼり、どんな恐ろしいことをたくらんでいるか、知れたものではない。
 彼女は双眼鏡を眼に当てて、欄干から塔の下のおびただしい群衆を入念に眺め廻した。挙動の不審なやつはいないかと、熱心に調査した。そうして眼まぐるしく動く群衆を眺めているうちに、われとわが心の弱みに負けて、彼女は言い知れぬ不安になやまされはじめた。
 あすこに塔を見上げてたたずんでいる洋服の男が刑事かもしれない。こちらに、さいぜんからじっとうずくまっているルンペンが、なんだか怪しい。明智の部下が変装しているのかもしれない。
 いやいや、このおびただしい群衆の中には、明智小五郎その人が、何かに姿を変えて、まぎれこんでいまいものでもない。
 彼女はイライラしながら、双眼鏡を眼に当てたまま、展望台の周辺を、何度となく歩き廻った。
 捕縛を恐れることは少しもない。そんなことをすれば、大切な早苗さんの命がなくなることは、敵の方でも知り抜いているはずだ。恐ろしいのは尾行であった。尾行の名人にかかっては、いくら機敏に立ち廻っても、まき切れるものではない。明智小五郎がその尾行の名人なのだ。もしも明智があの群衆の中にまじって、人知れず彼女を尾行し、かくれがをつきとめられるようなことがあったら……それを考えると、さすがの女賊もゾッとしないではいられなかった。
「やっぱりあの手を用いてやろう。用心にこしたことはありゃしない」
 彼女はツカツカと売店の前に近づいて、店番のおかみさんに声をかけた。
「お願いがあるのですが、聞いてくださらないでしょうか」
 売店の台のうしろに、火鉢をかこんで丸くなっていた夫婦の者が、びっくりして顔を上げた。
「何かさし上げますか」
 可愛らしい顔のおかみさんが、愛想笑いを浮かべて答えた。
「いえ、そんなことじゃありません。折りいってお願いがあるのですが。さっきあすこで話していた男の人があったでしょう。あれは恐ろしい悪人なのです。あたしあいつに脅迫されて、ひどい目に遭いそうなんです。助けてくださいませんでしょうか。さっきはうまく言って先へ帰しましたけれど、あいつはまだ塔の下に待ち伏せしています。どうかお願いです。しばらくのあいだ、あなたあたしの替玉になって、あちらの欄干のところに立っていてくださらないでしょうか。その幕のかげで、着物を取りかえっこして、おかみさんがあたしに、あたしがおかみさんに化けるのです。幸い年頃も同じだし、髪の形もそっくりなんですから、きっとうまくいきます。そして、御亭主さん、ほんとうにすみませんけど、おかみさんに化けたあたしを、そのへんまで送ってくださらないでしょうか。お礼は充分します。ここに持ち合わせているだけ、すっかり差上げます。ねえ、お願いです」
 彼女は、さもまことしやかに嘆願しながら、札入れを取り出し、七枚の十円紙幣を、辞退するおかみさんの手に無理ににぎらせた。
 夫婦者はボソボソと相談していたが、思わぬ金もうけに仰天して、別に疑うこともなく、この突飛千万な申し出を承諾してしまった。
 売店は風よけの帆布でグルッと取りかこまれているのでその中にかくれて、そとからは少しもわからぬように着がえをすることができた。
 色白のおかみさんが、「黒トカゲ」のやわらかものを着こんで、みだれた髪をととのえ、金縁目がねをかけて、シャンとすると、見違えるばかり上品な奥様姿になった。
「黒トカゲ」の方は、変装ときてはお手のものである。髪の形をくずし、そのへんのほこりを手の平になすりつけて、ぐるぐると顔をなで廻すと、もう立派な下級商人のおかみさんになりすましてしまった。それに縞の和服に、袖つきの薄よごれたエプロン、継ぎのあたった紺足袋という衣裳だ。
「ホホホホホ、うまいわね。どう? 似合って?」
「飛んだことになったもんだね。かかあのやつ、貴婦人みたいにすましこんでいやあがる。奥さんの方はきたなくなっちまいましたね。上出来ですよ。それなら旦那様にだって、わかりっこはありゃあしない」
 売店の亭主は両人を見比べて、あっけに取られている。
「ああ、そうそう、あんたマスクをはめていたわね。ちょうどいいわ。それを貸してちょうだい」
「黒トカゲ」の口辺は、白布のマスクに覆いかくされてしまった。
「じゃあね、おかみさん、その欄干に立って、双眼鏡をのぞいてくださいね、お願いしますわ」
 そして、売店の女房になりすました女賊は、その御亭主といっしょにエレベーターに乗って、雑沓の地上に降りた。
「さあ、急いでくださいね。見つかっては大へんなんだから」
 二人は群衆をかき分けるようにして映画街を通り抜け、公園の木立ちのあいだを、さびしい方へさびしい方へと歩いて行った。
「ありがとう。もう大丈夫ですわ……まあおかしいわね。あたしたち、まるで駈落者《かけおちもの》みたいじゃありませんか」
 いかにも彼らは奇妙な駆落者の姿であった。男は耳がわるいのか、頭から顎にかけて、グルグルと繃帯を巻き、その上からきたならしい鳥打帽をかぶり、木綿縞の着物の上に黒らしゃの上っ張りを着て、皮のバンドを締め、素足に板裏草履といういでたち。女は前にしるした通りの女房姿。両人とも、不意気なマスクをかけている。その男が女の手を引いて、人眼を忍ぶように、木立ちから木立ちをぬって、チョコチョコと小走りに道を急いでいたのだ。
「へへへへへ、どうもすみません」
 男は気がついて、にぎっていた女の手をはなすと、少しはにかみながら笑った。
「そんなこと、よござんすわ……あなた、どうかなさいましたの、その繃帯?」
「黒トカゲ」は危地を脱し得たお礼心に、そんなことをたずねてみた。
「ええ、中耳炎をやってしまいましてね。もう大分いいのですけれど」
「まあ、中耳炎なの。大切にしなければいけませんわ。でも、あなたいいおかみさんを持ってお仕合わせですわね。ああして二人で商売をしていたら、さぞ楽しみなことでしょうね」
「ヘヘヘヘヘ、なあにね、あんなやつ、しようがありませんや」
 この男少し甘いんだなと、おかしくなった。
「じゃあ、これでお別かれしますわ。おかみさんによろしく、ほんとうにこの御恩は忘れませんことよ……ああ、それから、あの着物は、着古したんですけど、おかみさんにさし上げますから……」
 木立ちを出はずれた公園を縦貫する大通りに、一台の自動車がとまっていた。「黒トカゲ」は男に別れると、その自動車へと走って行った。
 自動車の運転手は、彼女を待ち構えてでもいたように、急いでドアをひらく。女賊はいきなりそのドアの中へ姿を消しながら、何か一こと合図のような声をかけると、車はたちまち走り出した。その車の運転手は「黒トカゲ」の部下であって、あらかじめ打ち合わせておいて首領を待ち受けていたのにちがいなかった。
 売店の亭主は、女賊の車が動き出すのを見ると、何をとまどいしたのであろう、塔の方へは帰らないで、やにわに大通りに飛び出して、キョロキョロとあたりを見廻していたが、ちょうどそこへ通りかかった一台の空《から》自動車に、彼はサッと手をあげて、その車を呼びとめ、飛び乗るが早いか、さいぜんとは打って変った歯切れのよい口調で叫んだ。
「あの車のあとを追跡するんだ。僕はその筋のものだ。チップは充分に出すから、うまくやってくれたまえ」
 車は前の自動車を追いつつ、適当な間隔を取って走り出した。
「先方に気づかれないように注意して」
 彼はときどき指図を与えながら、中腰になって、勇ましい騎手のように、前方をにらみつづけていた。
 彼は「その筋の者だ」といった。だが、はたして警察官なのであろうか。どうもそうでもないように思われる。彼の声には、何かしらわれわれに親しい響きがこもっていた。いや声だけではない。グルグルと巻きつけた繃帯の下から、じっと前方を見つめているあの鋭い両眼には、どこかしら見覚えがあるように感じられるではないか。

追跡

 どんよりと曇った冬の日、夕暮れの薄闇、大阪市を南北につらぬくSという幹線道路を、烈しいタクシーの流れにまじって、絶えず一定の距離を保ちながら、不思議な追っ駈けっこをしている二台の自動車があった。
 先の車には、和服にエプロン姿の下級商人のおかみさんといった、若くて美しい女が、一人ぼっちで、クッションの隅っこの方に隠れるようにして乗っていた。
 ちょっと見たのでは、タクシーなんかに乗りそうもないみすぼらしいおかみさん。だが、その実は、この女こそ、稀代《きだい》の女賊「黒トカゲ」の変装姿であった。
 さすがの女賊も、彼女のすぐうしろから、もう一台の自動車が、送り狼のように、執念深く尾行していることを、少しも気づかなかったけれども、その尾行車の中には、顔半面に繃帯を巻きつけた、やっぱり下級商人ていの異様な男が乗っていて、恐ろしい形相で前の車を見つめながら、運転手に「もっと早く」「もう少しゆっくり」などと横柄《おうへい》な命令を下していた。
 この男、そもそも何者であったのか。
 彼は前方をにらみつけたまま、着ていた羅紗《ラシャ》のモジリと縞の着物とを、手早く脱ぎ捨ててしまった。すると、その下から現われたのは、薄よごれたカーキ服、カーキ・ズボン。小商人が、たちまちにして工場労働者と早変りしてしまった。
 職工風になりすますと、彼は今度は、半面の繃帯を、大急ぎで、引きちぎるようにしながら、解きはじめた。みるみる隠れていた顔の半分が現われてくる。耳の病気でもなんでもなかったのだ。
 ただそう見せかけて、たくみに顔をかくしていたのだ。
 たちまち、らんらんとかがやく両眼が、一文字の濃い眉が、この不思議な人物の正体を暴露した。明智だ。明智小五郎だ。
 彼は女賊のはかりごとの裏をかいて、塔上の売店の主人と化けおおせ、きょうこそは「黒トカゲ」の秘密をつきとめ、その本拠をあばかんと、手ぐすね引いて待ち構えていたのだ。
 女賊はそれとも知らず、明智の術中におちいって、彼に逃走の手助けをさえ乞うた。捕えようと思えば、いつでも捕えられたのだ。しかし奪われたお嬢さんの居所を確かめないうちは、賊の本拠をつきとめないうちは、うかつな手出しは禁物である。彼ははやる心をおし静めて、気永い尾行を余儀なくさせられた。そして、結局は、一挙にして、お嬢さんと宝石とを、二つながら取り戻し、同時に女賊「黒トカゲ」をその筋の手に引き渡そうというのが、彼の計画であった。
 もうそとはまっ暗になっていた。うしろへうしろへと飛び去る街燈の中を、二台の車は、大阪の町から町をグルグルと曲がりながら、不思議なレースをつづけた。
 女賊の車の車内燈は消えているので、ただ飛び去る街燈の光線で、背後のガラス窓から、彼女の頭部がほのかに眺められるばかりだ。自然、明智は両車の距離を危険のない程度で、できるだけ接近させなければならなかった。
 車がとある町角を曲がると、そこに大阪名物の運河の一つが流れていた。片側は大戸をおろした問屋町、片側は直接河に面して、荷役をするため、河岸《かし》がダラダラ坂に傾斜していた。市内にこんなさびしい場所がと思うほど、夜はまっ暗な町筋である。
 先の車は、なぜかその暗闇の中をノロノロと運転して行ったが、少し先の橋の袂《たもと》まで行くと、そこの明かるい街燈の下で、急に停車してしまった。
「アッ、いけない、とめてくれたまえ」
 明智が運転手に命じて、ブレーキをかけさせているうちに、相手の車は、グルッと方向転換をしたかと思うと、こちらに向かって引き返してくる。
 見ると、その風よけガラスに「空車」という赤い標示が出ている。いつのまにか、後部の客席はからっぽになっていた。
 何を考えるひまもなく、怪自動車はもう眼の前にいた。のんきらしく警笛を鳴らしながら、ゆっくりとすれちがって行く。
 明智は一尺の近さで、相手の車の内部を、くまなく見て取ることができた。確かに空車だ。ついさっきまで見えていた女の姿は、影も形もなかった。
 運転手は明らかに賊の手下、車も賊のものにちがいないのに、その筋の疑いを防ぐためにか、何喰わぬ顔をして、空タクシーをよそおっているのだ。
 この運転手を引っ捕えてみようか。いや、そいつは事こわしだ。「黒トカゲ」を探し出さなければならない。そして、あくまであいつの本拠をつきとめなければならない。
 だが、それにしても、女賊は一体全体どこへ隠れてしまったのであろう。あの車が橋の袂で停車した時には、だれも降りたものはなかった。そこは明かるい街燈の下なのだから、見のがすはずはない。また、ついさいぜんまで、河岸縁《かしぶち》へ車が曲がるまでは、あの女は確かに車内にいた。
 すると、賊はその角から橋の袂までのわずか半町ほどの暗闇を利用して、車を徐行させたまま飛び降り、どこかへ姿を隠したものであろうか。どこかへとて、片側はビッシリ立ち並んだ商家が、大戸をしめて静まり返っているのだし、片側は黒い水の流れる運河なのだ。明智は車を降りて、その疑わしい半町ほどを一往復して入念にしらべてみたけれど、どこの隅っこにも、人間はおろか犬の子さえも見当らなかった。
「へんですね。まさかこの河の中へ飛びこんだのじゃありますまいね」
 元の場所に帰ってくると、運転手がとんきょうなことをいった。
「うん、河へね。そうかもしれない」
 明智は言いながら、そこの荷揚場の下の闇にもやってある、一艘の大きな和船を見つめていた。
 船上には人影もないけれど、艫《とも》の舷側《げんそく》の油障子に、ランプの灯影が赤くさしている。あの中には船頭の一家族が住んでいるはずだ。見れば、歩みの板もまだ渡したままになっている。もしや、もしや、あの赤い油障子の蔭に、あの女、女賊「黒トカゲ」は、息を殺して身をひそめているのではあるまいか。
 実に途方もない想像であった。だが、そのほかに女賊の逃げ道は全くなかったのだ。それに「黒トカゲ」の場合にかぎっては、常識は禁物だ。できるだけ突拍子もないことを考えると、それがちゃんと当たっているのだ。
「君ね、少し頼まれてくれないか」
 明智は一枚の紙幣をにぎらせながら、ソッと運転手の耳元にささやいた。
「あの船の明かりのついている障子があるだろう。一度ヘッド・ライトを消してね、今度スイッチを入れた時には、ちょうどあの障子のあたりを照らすように、自動車の向きをかえてくれたまえ。それから、こいつは少しむずかしい注文だが、君に悲鳴をあげてもらいたいんだ。助けてくれっといってね。できるだけ大きな声を出すんだ。そして、ヘッド・ライトをパッとつけてほしいんだがね。できるかい」
「へえ、妙な芸当を演じるんですね……ああ、そうですかい。わかりました。よござんす。やってみましょう」
 お札《さつ》が物をいって、運転手はたちまち承諾した。ヘッド・ライトが消えた。車は静かに向きをかえた。
 職工姿の明智は、その辺に落ちていた大きな石ころを両手に拾い上げると、ダラダラ坂の荷揚場を、河岸へと降りて行く。
「助けてくれえっ、ワーッ、助けてくれえっ!」
 突如として起こる運転手の金切り声。今にも殺されそうな、真にせまった叫喚《きょうかん》。
 と、同時に、ドブンという恐ろしい水音、明智が石ころを水中に落としたのだ。音だけを聞けば、だれかが川へ飛びこんだとしか思えない。
 予想した通り、この騒ぎに船の油障子がひらいた。そしてそこからヒョイとのぞいた顔。たちまちヘッド・ライトの直射にあって、びっくりして引っこんだ顔。明智は見のがさなかった。「黒トカゲ」だ。おかみさんに化けた「黒トカゲ」だ。
 むろん先方からは、明智の姿は見えない。さいぜんからの尾行を気づいていないこともたしかだ。そうと知ったら、あの女が窓から顔を出したりするはずがないからだ。
 物音に驚いた商家の雇人たちが、ガラガラと大戸をひらいて往来へ飛び出してきた。
「なんだ、なんだ」
「喧嘩じゃないか。やられたんじゃないか」
「へんな水の音がしたぜ」
 だが、その時分には、素早い運転手は、車の方向をかえて、もう半町も先を走っていた。
 明智は明智で、闇の河岸縁を走って、橋の袂の公衆電話へ駈けこんでいた。
 敵は水を利用しようとしている。追跡はどこまでつづくかわかったものではない。味方の者に、あとのことを指図しておかなければならなかった。

怪談

 その翌未明、大阪の川口を出帆《しゅっぱん》した二百トンにも足らぬ小汽船があった。しあわせと風波のない航海|日和《びより》、畳のような海原を、その船は見かけによらぬ快速力で、午後には紀伊半島の南端に達したが、どこへ寄港するでもなく、伊勢湾などは見向きもしないで、まっしぐらに、太平洋のただなかを、遠州灘めがけて進んで行った。ちっぽけな船のくせに、大胆にも、遠洋航路の大汽船と同じコースを通っているのだ。
 外見はなんのへんてつもないまっ黒な貨物船。だが、船内には貨物倉などは一つもなくて、ハッチを降りると、そとのみすぼらしさに引きかえて、驚くほど立派な船室が、ズラリと並んでいた。貨物船と見せかけた客船、いや客船というよりは、一つのぜいたくな住宅であった。
 それらの船室のうちでも、船尾に近い一室は、広さといい、調度といい、きわだって立派やかに飾られていた。おそらくはこの船の持主の居間にちがいない。
 敷きつめた高価なペルシャジュウタン、まっ白に塗った天井、船内とは思われぬ凝ったシャンデリヤ、飾り箪笥《だんす》、織物に覆われた丸テーブル、ソファ、幾つかのアームチェア。
 その中に、一つだけ模様の違う長椅子が、居候《いそうろう》といった恰好で、部屋の調和を破って、一方の隅にすえてある。
 おや、この長椅子はどっかで見かけたように思うが……ああ、そうだ。かぎ裂きをつくろったあとがある。確かにあれだ。三日以前、岩瀬邸の応接間から、お嬢さんの早苗さんをとじこめてかつぎ出された、あの長椅子だ。それが、どうしてこんな船の中などにおいてあるのだろう。
 はて、ここにこの長椅子があるからには、もしかしたら……いやいや、もしかしたらではない。われわれは長椅子ばかりに気を取られ、それに腰かけている一人物を、つい観察しないでいたが、その人物こそ……つやつやと光るまっ黒な絹の洋装、耳たぶにも、胸にも、指にも、キラキラとかがやく宝石装身具、一種異様の凄味を帯びた美貌、黒絹の衣裳のそとまで透いて見える豊満な肉体、これを見忘れてよいものか、黒トカゲだ。つい一昼夜以前、明智探偵に尾行されているとも知らず、大型和船の油障子のなかへ姿をかくした、女賊「黒トカゲ」だ。
 女賊をかくまったあの和船は、夜のうちに枝川から大川へと漕ぎ下り、川口に碇泊《ていはく》していたこの本船へ、「黒トカゲ」を乗り移らせたものであろう。
 では、この小汽船は一体どうした船かしら。普通の商船なれば、女泥棒なぞが、その一ばん上等の船室を、我物顔にふるまっているわけがない。ひょっとしたら、これは「黒トカゲ」自身の持ち船なのではあるまいか。
 そうだとすれば、ここに例の「人間椅子」があるわけもわかってくる。そして「人間椅子」があるからには、その中にとじこめられていた早苗さんも、今はこの船内のどこかに監禁されているのではないだろうか。
 それはともかく、われわれは眼を転じて、次の部屋の入り口を眺めなければならない。そこにまた、別の一人物が立ちはだかっていたからだ。
 金モールの徽章《きしょう》のついた船員帽、黒い縁とりの詰襟服、普通の商船となれば、事務長といった風体の男である。だがこの男も、どっかで見かけたような気がする。ひしゃげた鼻、頑丈な骨格、まるで拳闘選手みたいな男だが……ああ、わかった、あいつだ。東京のKホテルで、山川博士に化けて早苗さんを誘拐した、拳闘不良青年、「黒トカゲ」に命をささげた子分の一人、雨宮潤一、潤ちゃんの変装姿であった。
「まあ、あんたまで、そんなこと気にかけているの。いやだわねえ。男のくせにお化けが怖くって?」
「黒トカゲ」は、例の長椅子にゆったりともたれて、美しい顔でせせら笑って見せた。
「気味がわるいのですよ。なんだかへんなぐあいですからね。それに、船のやつらは、揃いも揃って迷信家ときている。あんただって、あいつらが物蔭でボソボソささやいているのを聞いたら、きっといやな気がしますぜ」
 船の動揺によろよろとよろけながら、潤ちゃんの事務長はさも無気味そうな顔をする。
 室内には、シャンデリヤがあかあかとついているけれど、鉄板の壁一重そとは、とっぷりと日が暮れて、見渡すかぎり黒い水、黒い空、静かだとはいっても、山のようなうねりが、間をおいては押し寄せてくる、そのたびごとに、あわれな小船は、無限の暗闇にただよう一枚の落葉のように、たよりなくゆれているのだ。
「一体どんなことがあったっていうの? くわしく話してごらんなさい。そのお化けをだれが見たの?」
「だれも姿を見たものはありません。しかし、そいつの声は、北村と合田《あいだ》の二人が、別々の時間に、たしかに聞いたっていうんです。一人ならともかく、二人まで、同じ声に出っくわしたんですからね」
「どこで?」
「例のお客さんの部屋です」
「まあ、早苗さんの部屋で」
「そうですよ。きょうお昼頃に、北村がドアの前を通りかかると、部屋の中で、低い声でボソボソ物をいっているやつがあったんです。あんたも僕も、みんな食堂にいた時ですよ。早苗さんは例の猿ぐつわをはめてあるんだから、物をいうはずはない。ひょっとしたら水夫か何かがいたずらをしているんじゃないかと思って、ドアをあけようとすると、そとから錠がかかったままになっている。北村はへんに思って、大急ぎで鍵を取ってきて、ドアをあけて見たというのです」
「猿ぐつわがとれていたんじゃない? そして、あのお嬢さん、また呪いの言葉でもつぶやいていたんじゃない?」
「ところが、猿ぐつわはちゃんとはめてあったのです。両手を縛った縄もべつにゆるんでなんかいなかったのです。むろん部屋の中には、早苗さんのほかにだれもいやあしない。北村はそれを見て、なんだかゾーッとしたって言います」
「早苗さんに尋ねてみたんだろうね」
「ええ、猿ぐつわを取ってやって、尋ねてみると、かえって先方がびっくりして、少しも知らないと答えたそうです」
「へんな話ね。ほんとうかしら」
「僕もそう思った。北村の耳がどうかしていたのだと、軽く考えて、そのままにしておいたのです。ところが、つい一時間ほどまえ、妙なことに、今度も、みんなが食堂にいたあいだの出来事ですが、合田がまた、その声を聞いちゃったんです。合田も鍵を取ってきて、ドアをあけて見たといいます。すると、北村の場合と全く同じで、早苗さんのほかには人の影もなく、猿ぐつわにも別状はなかったそうです。この二度の奇妙な出来事が、いつとなく船員に知れ渡って、先生たちお得意の怪談ばなしができあがっちまったというわけですよ」
「どんなことをいっているの?」
「みんなうしろ暗い罪を背負っている連中ですからね。人殺しの前科者だって二人や三人じゃありませんからね。怨霊《おんりょう》というようなものを感じるのですよ。この船には死霊《しりょう》がたたっているんだなんていわれると、僕にしたってなんだかいやあな気持になりますぜ」
 また一つ、大きなうねりが押し寄せて、ゴーッという異様な音を立てながら、船体を高く高く浮き上がらせたかと思うと、やがて、果て知れぬ奈落へと沈めて行く。
 ちょうどその時、発電機に故障でもあったのか、シャンデリヤの光が、スーッと赤茶けていって、何かの合図ででもあるかのように、薄気味のわるい明滅をはじめた。
「いやな晩ですね」
 潤一青年は、おびえた眼で息つく電燈を見つめながら、さも無気味らしくつぶやいた。
「大きな男のくせして、弱虫ねえ。ホホホホホ」
 黒衣婦人の笑い声が、壁の鉄板にこだまして、異様に響き渡った。
 すると、その時、まるで彼女の笑い声の余韻《よいん》ででもあるように、ソーッとドアをあけてはいってきた白いものがあった。白の大黒頭巾《だいこくずきん》、白の詰襟服、白のエプロン、大黒さまのように肥った顔が、異様に緊張している。この船のコックである。
「ああ、君か。どうしたんだ。びっくりさせるじゃないか」
 潤一青年が叱ると、コックは低い声で、さも一大事のように報告した。
「またへんなことがおっぱじまりそうですぜ。化物のやつ炊事室にまで忍びこんできやあがる。鶏が丸のまま一羽見えなくなっちまったんです」
「鶏って?」
 黒衣婦人が不審そうにたずねる。
「なあに、生きちゃいねえんです。毛をむしって、丸ゆでにしたやつが、七羽ばかり戸棚の中にぶら下げてあったのですが、昼食の料理をする時には、たしかに七つあったやつが、今見ると、一羽足りなくなっているんです。六羽しきゃねえんです」
「夕食には鶏は出なかったわね」
「ええ、だからおかしいんです。この船には、一人だって食いものにガツガツしている者はいねえんですからね。お化けでもなけりゃあんなものを盗むやつはありゃしません」
「思い違いじゃないの」
「そんなこたアありません。あっしはこれでごく物覚えがいい方ですからね」
「へんだわねえ、潤ちゃん、みんなで手分けして船の中をしらべて見てはどう? ひょっとしたら何かいるのかもしれない」
 女賊とても、かさなる怪事に妙な不安を感じないではいられなかった。
「ええ、僕もそうしてみようと思っているのです。死霊にもせよ、生霊にもせよ、物をいったり、食いものを盗んだりするところを見ると、何か形のあるやつにちがいないですからね。厳重にしらべたら、化物の正体を見届けることができるかもしれません」
 そこで、潤一事務長は、船内の捜索を命ずるために、そそくさと部屋を出て行った。
「ああ、それから、美しいお客さんのことづけがあったんですがね」
 コックが思い出して、女首領に報告した。
「え、早苗さんがかい」
「そうですよ。つい今しがた、食事を持って行ったんですがね。縄を解いて猿ぐつわをはずしてやると、あの娘さんきょうはどうしたことか、さもおいしそうに、すっかり御馳走を平らげちゃいましたよ。そして、もうあばれたり、叫んだりしないから、縛らないでくれっていうんです」
「素直にするっていうの?」
 黒衣婦人は意外らしく聞き返す。
「ええ、そういうんです。すっかり考えなおしたからって、とてもほがらかなんです。きのうまでのあの娘さんとは思えないほどの変り方ですぜ」
「おかしいわね。じゃ、あの人を一度ここへ連れてくるように、北村にいってくれない」
 コックが旨を領して退出すると、間もなく、縛《いまし》めを解かれた早苗さんが、北村という船員に手をとられてはいってきた。

原文 青空文庫より引用
入力: sogo
校正: 大久保ゆう

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