黒蜥蜴 / 江戸川乱歩(2)

暗闇の騎士

「早苗さんはよくおやすみですの?」
 緑川夫人はドアをしめて、明智の前に腰かけ、ソッと寝室の方を見やりながら、低声でたずねた。
「ええ」
 明智は何か考えごとをしながら、ぶっきらぼうに答える。
「お父さんもあちらに、ごいっしょにおやすみですの?」
「ええ」
 前章にもしるした通り、父岩瀬庄兵衛氏は、麻酔薬の睡魔におそわれ、明智に見張りを頼んだまま、早苗さんの隣に並んだベッドにはいって、寝入ってしまっていたのだ。
「まあ、空返事ばっかりなすって」緑川夫人はにっこりと微笑して、「何を考えこんでいらっしゃいますの。こうして見張っていらしっても、まだご心配ですの?」
「ああ、あなたはまだ」明智はやっと顔をあげて夫人を見た。「さっきの賭けのことをいっていらっしゃるのですね。僕が負けになって、お嬢さんが誘拐されればいいと、けしからんことを願っていらっしゃるのですね」
 と、彼も美しい人のからかいに応酬した。
「あら、いやですわ。岩瀬さんの御不幸を願っているなんて。ただ、あたし御心配申しあげていますのよ。で、その電報にはなんと書いてございまして?」
「今夜十二時を用心しろというのです」
 明智はおかしそうに答えて、マントルピースの置時計を眺めた。その針は十時五十分を示している。
「まだあと一時間あまりございますわね。あなたはずっとここに起きていらっしゃるんでしょう。退屈じゃございません」
「いいえ、ちっとも。僕は楽しいのですよ。探偵稼業でもしていなければ、こういう劇的な瞬間が、人生に幾度味わえるでしょう。奥さんこそお眠いでしょう。どうかおやすみください」
「まあ、ずいぶん御勝手ですこと。あたしだって、あなた以上に楽しゅうございますのよ。女は賭けには眼のないものですわ。おじゃまでしょうけど、おつき合いさせてくださいません?」
「また賭けのことですか。では、どうか御随意に」
 そうして、この異様な男女の一と組は、しばらくだまったまま対座していたが、夫人はふとそこのデスクの上においてあったトランプの札に気づいて、睡気ざましに一と勝負と提議し、明智も同意して、賊を待つまの、奇妙なトランプ遊戯がはじまった。
 恐ろしいからこそ待ち遠しい一時間が、トランプのおかげで、つい知らぬまにたって行った。そのあいだも、明智は寝室との境の開け放ったドアの向こうに、抜け目なく眼をくばりつづけていたことはいうまでもないが、寝室の窓(もし賊が外部から侵入するとすれば、この窓が残されたただ一つの通路であった)にはなんらの異状も起こらなかった。
「もうよしましょう。あと五分で十二時ですわ」
 緑川夫人が、もうトランプなどもてあそんでいられないという、イライラした表情になって言った。
「ええ、あと五分です。まだ一と勝負は大丈夫ですよ。そうしているうちに、何事もなく十二時がすぎてしまいますよ」
 明智はカードをまぜ合わせながら、のん気らしくさそいかけた。
「いいえ、いけません。あなたは賊を軽蔑なすってはいけません。さっき談話室でもお話ししました通り、あたし、この賊にかぎって、約束をほごにするようなことはあるまいと思いますの。きっと、きっと今に……」
 夫人の顔は異様に緊張していた。
「ハハハハハ、奥さん、そう神経的になってはいけませんね。その賊は、一体どこからはいってくるとおっしゃるのです」
 明智の言葉に夫人は思わず手をあげて、入口のドアを指さした。
「ああ、あのドアから。では、奥さんの御安心のために、鍵をかけておきましょう」
 明智は立って行って、岩瀬氏から預かった鍵でドアにしまりをした。
「さあ、これでドアをこわさなければ、だれも早苗さんのベッドへ近よることはできません。御承知の通り寝室へはこの部屋を通るほかに通路はないのですから」
 すると、夫人は、怪談におびえた子供のように、また手をあげて、こんどは薄ぼんやりと見えている寝室の窓を指さすのだ。
「ああ、あの窓。賊が中庭から梯子《はしご》をかけて、あの窓へよじのぼってくるとでもおっしゃるのですか。しかしあの窓の戸にはちゃんと掛け金がかけてあるのです。よしまた窓ガラスを切り破ってはいってくるようなことがあったとしても、ここからは一と眼にわかるのだから、いざという時には、僕の射撃の腕前をお眼にかけるばかりですよ」
 明智は言いながら、コツコツと右のポケットをたたいて見せた。そこには小型のピストルがひそませてあったのだ。
「早苗さんはなにも知らずに、よくお寝《よ》ってですわね。でも岩瀬さんは、どうして起きていらっしゃらないのでしょう。こんな場合に、ちとのん気すぎるようですわ」
 夫人はソッと寝室の中をのぞきに行って、不審らしくつぶやくのだった。
「二人とも毎晩睡眠剤を呑んで寝るのだそうです。恐ろしい予告状で、神経衰弱になっているのですね」
「あら、もう一分しかありませんわ。明智さん大丈夫でしょうか」
 夫人が立ちあがって頓狂《とんきょう》な声を立てた。
「大丈夫ですとも、この通り何事も起こらないじゃありませんか」
 明智も思わず立って、異様に昂奮している夫人の顔を、不思議そうにのぞきこんだ。
「でも、まだ三十秒あります」
 緑川夫人は、燃えるような眼で明智を見返しながら叫んだ。ああ、女賊は今、勝利の快感に酔っているのだ。名探偵明智小五郎を向こうに廻して、ついに凱歌をあげる時がきたのだ。
「奥さん、あなたは、そんなに賊の腕前を信用なさるのですか」
 明智の眼にも一種の光が宿っていた。彼は夫人の解《げ》しがたい表情の謎を解こうとして苦悶しているのだ。なんだろう。このえたいの知れない美人は、一体何を考えて、こんなに昂奮しているのだろう。
「ええ、信用しますわ。あんまり小説的な空想かも知れませんけど。でも、今にも暗闇の騎士が、どこからかソッと忍びこんできて、美しいお嬢さんをかどわかして行くのではないかと、こうアリアリと眼に見えるように思われてなりませんの」
「ウフフフフフ」明智がとうとうふきだしてしまった。
「奥さん、ごらんなさい。あなたがそんな中世紀の架空談をやっていらっしゃるあいだに、時計はもう十二時を過ぎてしまいましたよ。やっぱり賭けは僕の勝ちでしたね。では、あなたの宝石を頂きましょうか。ハハハハハ」
「明智さん、あなたはほんとうに賭けにお勝ちになったとお思いになりまして?」
 夫人は紅い唇を毒々しくゆがめて、わざとゆっくりゆっくり物をいった。彼女は勝利の刹那の快感に、つい貴婦人らしい作法をさえ忘れてしまったのだ。
「えっ、すると、あなたは……」
 明智は敏感にその意味をさとって、なんとも知れぬ恐怖に、サッと顔色を変えた。
「あなたはまだ、早苗さんが果たしてかどわかされなかったかどうか、確かめてもごらんなさらないじゃありませんか」
 夫人は勝ちほこったようにいうのだ。
「しかし、しかし、早苗さんは、ちゃんと……」
 さすがの名探偵もしどろもどろであった。気の毒にも、彼の広い額には、じっとりと脂汗が浮かんでいた。
「ちゃんとベッドにおやすみになっているとおっしゃるのでしょう。でも、あすこに寝ているのがほんとうに早苗さんでしょうかしら。もしやだれか全く別の娘さんではないでしょうかしら」
「そんな、そんなばかなことが……」
 口では強くいうものの、明智が夫人の言葉におびやかされていた証拠には、彼はいきなり寝室に駈けこんで、寝入っている岩瀬氏をゆり起こした。
「な、なんです。どうかしたのですか」
 岩瀬氏はさいぜんから、睡魔と戦って半ば意識を取りもどしていたので、ゆり動かされると、ガバと半身を起こして、うろたえてたずねた。
「お嬢さんを見てください。そこにやすんでいらっしゃるのは、確かにお嬢さんにちがいありませんね」
 明智らしくもない愚問である。
「なにをおっしゃるのだ。娘ですよ。あれが娘でなくして一体だれが……」
 岩瀬氏の言葉が、プッツリ切れてしまった。彼は何かしらハッとしたように、早苗さんのうしろ向きの頭部を凝視《ぎょうし》しているのだ。
「早苗! 早苗!」
 岩瀬氏のせきこんだ声が、令嬢の名を呼びつづけた。返事がない。彼はベッドをはなれて、よろよろと早苗さんのベッドに近づき、彼女の肩に手を掛けてゆり起こそうとした。
 だが、ああ、一体全体これはどうしたことだ。そこには、実にへんてこなことには、肩というものがなかったのだ。押さえると毛布がペコンとへこんでしまったのだ。
「明智さん、やられた。やられました」
 岩瀬老人の口から、なんともいえぬ怒号がほとばしった。
「だれです。そこに寝ているのは、お嬢さんではないのですか」
「これを見てください、人間じゃないのです。わしらは実に飛んでもないペテンにかかったのです」
 明智と緑川夫人とが駈け寄って見ると、なるほど、それは人間ではなかった。早苗さんだとばかり思いこんでいたのは、一個無生の人形の首にすぎなかった。よく洋品店のショウ・ウィンドウなどに見かけるあの首ばかりの人形に目がねをかけ、早苗さんとそっくりの洋髪のカツラをかぶせたものにすぎなかった。胴体のかわりには敷蒲団をそれらしい形に丸めて、毛布がかぶせてあったのだ。

名探偵の哄笑

 ああ、人形の首。なんというズバぬけた欺瞞《ぎまん》だろう。あまりにも人を喰った子供だましのトリックではないか。だが、子供だましのトリックであったからこそ、おとなたちがまんまと一ぱい喰わされたのだ。さすがの明智小五郎も、犯人にこれほど思い切った稚気があろうとは、想像もできなかったのだ。
 それにしても、緑川夫人のいわゆる「暗闇の騎士」とは何者であったか。早苗さんを誘拐して、その身がわりに滑稽な人形の首を残して行った洒落《しゃれ》者は、一体だれであったか。読者諸君はよくご存じだ。その「暗闇の騎士」とは、ほかでもない緑川夫人その人であった。前章にしるした通り、彼女は早苗さんに変装して、一応そのベッドにはいり、寝入ったていをよそおって岩瀬氏を安心させておき、さて相手が睡眠剤に熟睡した頃を見はからい、用意の人形の首を身代りにして、ソッと自室に立ち帰ったのだ。彼女が岩瀬氏の部屋に忍びこむ時、何かしらかさばった風呂敷包みを、小脇に抱きかかえていたことは、読者も記憶されるであろう。それが魔術の種、人形の首であった。
 明智小五郎は、長い素人探偵生活中に、これほどみじめな立ち場におかれたことはなかった。岩瀬氏の信頼に対しても、緑川夫人への広言に対しても、引っこみのつかない窮境であった。しかもその失策の原因が、子供だましの人形の首とあっては、恥じても恥じきれない恥辱ではないか。
「明智さん、あんたにお願いしておいた娘が、これ、この通り盗まれてしまったのです。取り戻してもらわねばなりません。早く手配をしてください。あんた一人の力に及ばなければ、警察の力を借りて……そうだ、こうなれば、もう警察より頼るものはない。警察へ電話をかけてください。それとも、わたしがかけましょうか」
 岩瀬庄兵衛氏は、激情のあまり紳士のつつしみを忘れて、つい乱暴な言葉も吐くのだ。
「いや、お待ちください。いま騒ぎ立てたところで、賊を捉《とら》えることはできません。誘拐は少なくとも二時間以前に行われたのです」
 明智は死にものぐるいの気力で、やっと冷静を保ち、鋭く頭を働かせながら言った。
「僕がこの部屋で見張りをしているあいだには、何事も起こらなかったことを断言します。犯罪はあの電報が配達される前に行なわれたと考えるほかはありません。つまりあの電報の真意は、犯罪の予告ではなくて、すでに行なわれた犯罪をこれから起こるもののように見せかけ、十二時までわれわれの注意をこの部屋に集めておくことにあったのです。そして、そのあいだに賊は充分安全な場所へ逃亡しようという計画だったのです」
「ホホホホホ……あら、ごめんなさい。つい笑ってしまって。でも、名探偵といわれる明智さんが、二時間も、一所懸命にお人形の首の番をしていらしったかと思うと、おかしくって……」
 緑川夫人が場所がらをもわきまえぬ毒口をきいた。彼女は今や完全に勝利を得たのだ。こみあげてくる歓喜をどうすることもできなかったのだ。
 明智は歯を喰いしばって、この嘲笑に堪えた。彼は敗者には違いなかった。だが、全く敗れてしまったのだとはどうしても思えない。何かしら心の隅に一縷《いちる》の望みが残っているような気がした。彼はそれをたしかめるまでは、この勝負をあきらめる気にはなれなかった。
「だが、こうして待っていたって、娘が帰ってくるものでもありますまい」
 岩瀬氏は緑川夫人の同情のない無駄口に一そうイライラして、明智に突っかかって行った。
「明智さん、わたしは警察へ電話をかけますよ。まさか不服だとおっしゃるのではあるまいね」
 彼は返事も待たず、居間の方へよろめいて行って、卓上の電話機を取ろうとした。すると、ちょうどその時、まるで申し合わせでもしたように、先方からジリリリと呼び出しのベルが鳴りひびいた。
 岩瀬氏はチェッと舌打ちしながら、仕方なく受話器を取りあげ、罪もない交換手を口ぎたなくどなりつけていたが、やがて、かんしゃく声で明智を呼んだ。
「明智さん、あんたに電話だ」
 明智はそれを聞くと、何か忘れものを思い出しでもしたように、ハッとして、いきなり電話機へ飛んで行った。
 電話はなんの用件であったか、彼は熱心に受け答えをしていたが、最後に、
「二十分? そんなにかかるものか。十五分? いやいや、それではおそい。十分だ。十分で駈けつけたまえ。僕は十分しか待たないよ。いいか」
 という明智の謎のような言葉で電話が切れた。
「御用がすんだら、ついでに警察を呼び出すようにいってくださらんか」
 明智のそばに立ちはだかって待ち構えていた岩瀬氏が、イライラしながら皮肉まじりにいう。
「警察に報告するのは、そんなに急ぐことはありません。それよりも、少し僕に考えさせてください。僕は大へんな思いちがいをしていたのです」
 明智は岩瀬氏に取りあおうともせず、そこに突っ立ったまま、のんき千万にも、何かしら考えごとをはじめた。
「明智さん、あんたはわたしの娘のことは考えてくださらんのか。あんなに固く引き受けておきながら……」
 明智の解しがたい態度に、岩瀬氏の怒りがますます高じて行くのは無理もないことであった。
「ホホホホホ、岩瀬さん、明智さんはね、お嬢さんのことなんかお考えになる余裕がありませんのよ」
 いつの間にか寝室から居間の方へはいってきた緑川夫人のほがらかな声が聞こえた。
「え、え、なんとおっしゃる」
 岩瀬氏があっけにとられる。
「明智さん、いまお考えになってること当てて見ましょうか。私との賭けのこと、ね、そうでしょう。ホホホホホホ」
 女賊は今や名探偵への敵意をあらわにして、大胆不敵の態度を示した。
「岩瀬さん、明智さんはあたしと賭けをなさいましたの。素人探偵という職業をお賭けなさいましたのよ。そして、とうとう明智さんの負けときまったものですから、あんなにうなだれて考えこんでいらっしゃるのですわ。ね、そうでしょう、明智さん」
「いや、奥さん、そうではないのです。僕がうなだれていたのは、あなたをお気の毒に思ったからです」
 明智は負けずに応酬する。誘拐された娘のことはほったらかしておいて、これはまあ一体どうしたというのだ。岩瀬氏はあまりのことに茫然として、二人の顔を見くらべるばかりであった。
「まあ、あたしが気の毒ですって。どうしてですの」
 夫人が詰め寄る。さすがの女賊も名探偵の眼の底にひそむ不思議な微笑を、見破ることができなかったのだ。
「それはね……」明智は彼自身の言葉を楽しむようにゆっくりゆっくり口をきいた。「賭に負けたのは、僕ではなくて、奥さん、あなただからです」
「まあ、なにをおっしゃいますの。そんな負け惜しみなんか……」
「負け惜しみでしょうか」
 明智はさも楽しそうだ。
「ええ、負け惜しみですとも。賊をとらえもしないで、そんなことおっしゃったって」
「ああ、では奥さんは、僕が賊を逃がしてしまったとでも思っていらっしゃるのですか。決して決して。僕はちゃんとその曲者《くせもの》をとらえたのですよ」
 それを聞くと、さすがの女賊もギョッとしないではいられなかった。このえたいの知れぬ男は、さっきまであんなに失望していたくせに、急に何を言い出したのであろう。
「ホホホホホ、おもしろうございますこと。ご冗談がお上手ですわね」
「冗談だと思いますか」
「ええ、そうとしか……」
「では、冗談でない証拠をお眼にかけましょうか。そうですね、たとえば……あなたのお友だちの山川健作氏が、このホテルを出てどこへ行かれたか、その行く先を僕が知っていたら、あなたはどう思います」
 緑川夫人はそれを聞くと、サッと青ざめて、思わずヨロヨロとよろめいた。
「山川氏が名古屋までの切符を買いながら、どうして途中下車したか。そして、同じ市内のMホテルへ宿を取ったか。また、同氏の大型トランクの中には、一体なにがはいっていたのか。それを僕が知っていたら、あなたはどう思います」
「うそです。うそです」
 女賊はもう物をいう力もないかに見えた。ただ口の中で否定の言葉をつぶやくばかりだ。
「うそですって。ああ、あなたはさっきの電話が、どこからかかってきたかを気づかないのですね。では、説明してあげましょう。僕の部下からです。僕はさいぜんあなたに罵倒《ばとう》されながらも、ただそれだけを待っていたのです。なぜといって、もし早苗さんがホテルからつれ出されたとしたら、ホテルの四方に配置しておいた五人もの僕の部下が、それを見逃すはずがないからです。五人のものに、いささかでも疑わしい人物は片っぱしから尾行して見よと、固く言いつけておいたからです。
 ああ、あの電話が、どんなに待ち遠だったでしょう。だが、結局勝利は僕のものでしたね。奥さん、あなたの失策は、僕が一人ぼっちだと早合点をなすったことですよ。僕には部下なんかないものと、ひとりぎめをなすったことですよ。では、奥さん、お約束にしたがって、あなたの宝石をすっかり頂くことにしましょうかね。ハハハハハハハ」
 止めどのない哄笑であった。今こそ勝者と敗者の位置が逆転したのだ。つい今し方まで緑川夫人が味わったと同じ、或いはそれ以上の勝利の快感が、明智の胸をくすぐった。笑うまいとしても、笑わずにはいられなかった。女賊はしかし、さすがに、さっき明智が示したのと同じほどの気力をもって、この哄笑を堪え忍んだ。
「では、早苗さんは取り戻せたのですか、おめでとう。そして、山川さんはどうなったのでしょうか」
 彼女は声をふるわすまいと気を張りながら、さも冷《ひや》やかにたずねた。
「残念ながら逃亡してしまったそうです」
 明智が正直に答える。
「おや、犯人は逃げてしまいましたの。まあ……」
 緑川夫人は、安堵《あんど》の色をかくすことができなかった。
「いや、ありがとう、ありがとう、明智さん。わたしはそうとも知らず昂奮してしまって、失礼しました。許して下さい。だが、さっきあんたは、犯人をとらえたようにおっしゃったと思うが、今のお話では、やっぱり逃がしてしまったのですか」
 岩瀬氏が、この意外の吉報に、すっかり機嫌を直してたずねる。
「いや、そうではありません。山川というのは今度の犯罪の主謀者ではないのです。僕がさっき犯人をとらえたと言ったのは、決してでたらめではありません」
 明智のこの言葉は、緑川夫人の顔を紫色にする力を持っていた。彼女はたちまち、追いつめられた猛獣のような恐ろしい表情になって、キョロキョロとあたりを見廻した。
 だが、逃げ出そうにも、入口のドアにはちゃんと鍵がかけてあるのだ。
「では、犯人はどこにいるのです」
 岩瀬氏はそれとも気づかず聞きかえす。
「ここに、われわれの眼の前にいます」
 明智がズバリといってのける。
「ホウ、眼の前に、だが、ここにはあんたとわたしと緑川さんのほかには、だれもいないようじゃが……」
「その緑川夫人こそ恐ろしい女賊です。早苗さんを誘拐した張本人です」
 十数秒のあいだ、死のような沈黙がつづいた。三人が三様のまなざしをもって、お互いをにらみ合った。
 やがてその沈黙を破ったのは緑川夫人であった。
「まあ、飛んでもないことです。山川さんが何をなさろうと、あたしの知ったことではありません。ただ、ちょっとしたお知合いの縁で、ホテルへご紹介しただけですもの。あんまりですわ。そんな、そんな……」
 だが、これが妖婦の最後のお芝居であった。
 彼女の言葉が終るか終らぬに、コツコツとドアをノックする音が聞こえた。
 明智はそれを待ちかねていたように、素早くドアに近づいて、手にしていた鍵でそれをひらいた。
「緑川夫人、君がいかに言い逃がれようとしても、ここに生きた証人がいる。君は早苗さんの前でも、そんな空々しい嘘をいえるのか」
 明智が最後のとどめを刺した。
 ドアの向こうから現われたのは、明智の部下の青年、青年の肩にぐったりとよりかかってわずかに立っている青ざめた早苗さん、それを守るように付きそっている制服警官の三人の姿であった。
 女賊「黒トカゲ」は絶体絶命の窮地に立った。味方はかよわい女一人、敵は早苗さんを除いても、警官まで加わった四人の男、逃げようとて逃げられるものではない。
 だが、なんというやせ我慢であろう。彼女はまだへこたれたようには見えなかった。
 いや、そればかりではない。実に驚くべきことには、彼女の青ざめた頬に、一脈の血の気がのぼったかと思うと、ゾッとするような微笑が浮かび、それがだんだん大きくほころびて行ったではないか。
 ああ、不敵の女賊は、最後のどたん場に立って、何がおかしいのか、異様に笑い出したのだ。
「フフフフフ、これが今晩のお芝居の大詰めってわけかい。まあ、名探偵っていわれるだけのことはあったわね。今度はどうやら僕の負けだね。負けということにしておこうよ。だが、それで、どうしようっていうの? 僕を捕縛しようとでも思っているの? そいつは少し虫がよすぎはしないかしら。探偵さん、よく思い出してごらん。あんた何か失策をしてやしない。え、どうなの? うっかりしているあいだに、何か無くしやしなくって、ホホホホホ」
 彼女は一体なんの頼むところがあって、この大言を吐いているのであろう。
 明智がどんな失策をしたというのであろう。

名探偵の敗北

 探偵の職にある者が、手ごわい犯罪者を捕えた時の喜悦は、常人の想像にも及ばない。その喜悦のあまり、彼がつい気をゆるし過ぎてしまったとしても、あながち無理ではなかった。
「黒トカゲ」は敗北にうちひしがれながらも、持ち前の鋭い頭脳を敏捷《びんしょう》に働かせて、この窮地を脱する計画を思いめぐらした。そして、とっさのまに一つの冒険を思い立ったのだ。
 彼女はやっと引きつった表情をやわらげ、明智探偵を笑い返すことができた。
「で、どうしようっていうの? 僕を捕縛しようとでも思っているの? ホホホホホ、それはちっと、虫がよすぎやしなくって?」
 なんという傍若無人。かよわい女の身で、味方は一人、相手は、病人同然の早苗さんを除いても、屈強の男が四人、その中には制服いかめしいおまわりさんもまじっているではないか。
 逃げ路はたった一つ、廊下に通ずるドアしかない。しかもそのドアの前には、今はいってきたばかりの明智の部下と警官とが、通せんぼうをして立ちはだかっている。窓から飛び出そうにも、ここは階上だし、そのそとは、グルッと建物でかこまれた内庭なのだ。一体全体、彼女はどんな方法で、この窮地を脱するつもりなのだろう。
「つまらない虚勢はよしたまえ。さあ、警官、この女をお引き渡しします。遠慮なく縄をかけてください。これが今度の誘拐団の主犯です」
 明智は「黒トカゲ」の挑戦を黙殺して、入口の警官に言葉をかけた。
 よく事情を知らない警官は、この美しい貴婦人が犯人と聞いて、面くらったように見えたが、捜査課で信用のあつい明智の顔は見知っていたので、いわれるままに、緑川夫人のそばに近づこうとした。
「明智さん、右のポケットをさわってごらんなさい。ホホホホホ、からっぽじゃなくって」
 緑川夫人の「黒トカゲ」が、近づく警官を尻目にかけながら、かん高く叫んだ。
 明智はハッとして、思わずそのポケットへ手をやった。ない。確かに入れておいたブローニングがない。女賊「黒トカゲ」は指先の魔術にもたけていたのだ。さいぜん、寝室での騒ぎのあいだに、用意周到にも、明智のポケットから、そのピストルをちゃんとぬき取っておいたのだ。
「ホホホホホホ、明智さん、スリの手口もご研究にならなくっちゃだめだわ。あなたの大切のもの、ここにありますのよ」
 女賊はにこやかに笑いながら、洋服の胸から小型の拳銃をつまみ出してキッと前に構えた。
「さあ、皆さん、手をあげてくださらない。でないと、あたしだって、明智さんにおとらない射撃の名手なのよ。それにあたし、人間の命なんて、なんとも思ってませんのよ」
 今一歩で彼女に組みつこうとしていた警官が、立ち往生をしてしまった。
 残念なことには、誰も飛び道具を持っているものはなかった〔註、そのころの警官はピストルを持たされていなかった〕。
「手を、さあ、手をあげなっていったら」
「黒トカゲ」は眼をすえて、紅い唇をなめながら、男たちに向かって次々と筒口を向けて行った。引き金にかけた白い指が、今にもギュッと力を入れそうに、ブルブルふるえている。
 彼女の殺気ばしった、というよりは一種気違いめいた表情を見ると、いわれるままに手をあげないではいられなかった。大の男が意気地のない話だけれど、警官も、明智の部下も、岩瀬氏も、名探偵明智小五郎さえも、ばんざいを中途でやめたような恰好をしないわけにはいかなかった。
 緑川夫人は(その時も例の黒ずくめの洋服であったが)あだ名の「黒トカゲ」そっくりの素早さで、サッとドアのそばへ駈け寄った。
「明智さん、これが、あんたの第二の失策よ。ほら」
 言いながら、あいている左手をうしろに廻して、さっき明智がドアをあけた時、鍵穴に差したままにしておいた鍵を抜き取ると、キラキラと顔の前で振ってみせた。
 まさかこんなことになろうとは想像もしなかったので、あわただしい折りから、明智はなんの気もなく鍵をそのままにしておいたのだが、それを見逃がさず、とっさに利用することを考えついた女賊の智恵のするどさ。
「それから、お嬢さん!」
 彼女はもうドアをあけて、片足を廊下にふみ出しながら、しかしピストルは油断なく構えたまま、今度は早苗さんに声をかけた。
「あんたはほんとうにかわいそうだと思うけど、日本一の宝石屋の娘さんに生れついたのが不運とあきらめてね。それに、あんたは、あんまり美し過ぎたのよ。僕は宝石もご執心だけど、宝石よりも、あんたのからだがほしくなった。決して断念しないわ。ねえ、明智さん、僕は断念しないよ。お嬢さんは改めて頂戴に上がりますよ。じゃ、さよなら」
 バタンとドアがしまって、そとからカチカチと鍵をかける音。早苗さんと四人の男とは、部屋の中へとじこめられてしまった。鍵は一つしかない。それを持ち去られたのでは、ドアを叩き破るか、高い窓から飛び降りるほかに、ここを脱け出す方法はない。
 だが、たった一つ、電話という武器が残っている。
 明智は卓上電話に飛びついて、交換台を呼び出した。
「もしもし、僕は明智、わかったね。大急ぎだよ。ホテルの出口という出口に見張りをさせてくれたまえ。そして、緑川夫人、緑川夫人だよ。あの人がいま外出するから、つかまえるんだ。重大犯人だ。どんなことがあっても逃がしちゃいけない。早く、支配人やみんなにそういってくれたまえ。いいかい。ああ、もしもし、それからね、ボーイにね、岩瀬さんの部屋へ合鍵を持ってくるようにいってくれたまえ。これも大急ぎだよ」
 電話をかけ終ると、明智は地だんだをふむようにして、部屋の中を往ったり来たりしていたが、また、せっかちに受話器を取った。
「もしもし、さっきのこと、うまくやってくれたかい。支配人にそういってくれたかい。ウン、よしよし、それでいい。ありがとう。じゃ、ボーイに合鍵を早くって言ってくれたまえ」
 それから、彼は岩瀬氏の方に向き直っていうのだ。
「ここの交換手はなかなか気が利いている。手早く計らってくれましたよ。出口という出口には見張りがついたそうです。あの女がいくら早く走っても、ここから階段までは相当距離があるんだし、階段を降りて出口までもなかなか遠いのだから、多分、ええ、多分大丈夫ですよ。まさかあの有名な緑川夫人を見知らない雇人はいないでしょうからね」
 だが、この明智の機敏な手配それ自身が、またしても一つの失策であった。
「黒トカゲ」は大急ぎで階段を降りると、実に意外にも、出口に向かおうとしないで、自分の部屋へはいってしまった。
 三分間、かっきり三分間であった。
 再び彼女の部屋のドアがあくと、そこから一人の意外な青年紳士が出てきた。恰好のいいソフト帽、はでな柄の背広服、気取った鼻目がね、濃い口ひげ、右手にはスネークウッドのステッキ、左手にはオーバーコート。
 これがわずか三分間の変装とは、お染の七化けもはだしの早業、魔術師と自称する「黒トカゲ」でなくてはできない芸当だ(そういう変装用の服装は、いつも旅行鞄の底に用意されていたのだ)。その上、なんとまあ抜け目のないことには、トランクの中の宝石類は、一つもあまさず、その背広服のポケットにおさまっていたのである。
 青年紳士は廊下の曲がり角で、ちょっと躊躇した。表からにしようか、それとも裏口からにしようかと。
 その時分にはもう、合鍵が間に合って、明智たちは階下へ降りていたが、まさか表玄関から逃げ出しもしまいと、その方は支配人にまかせ、手分けして幾つかの裏口の見張りをしていたのだが、「黒トカゲ」は早くもそれと察したのか、大胆不敵にも、胸を張り、ステッキを振りながら、靴音も高く表玄関を通ってそとに出た。
 そこには、支配人をはじめ三人のボーイが、ひどく緊張して見張り番を勤めていたのだけれど、なにをいうにも百人に近い泊り客、そこへそれぞれそとからのお客様があるのだから、一人一人の顔を見覚えているわけではないし、それに、目ざすは緑川夫人と、女客ばかりを注意していたものだから、ニッコリえしゃくして通り過ぎたこの青年紳士を、まさかそれとは思いもよらず、「どうもお騒がせいたしまして」と、丁寧にお辞儀までして、送り出したのであった。
 青年紳士は、玄関の石段をコツコツ降りると、おひろいで、口笛など吹きながら、ゆっくりと門のそとへ歩いて行った。
 ホテルの塀にそって、薄暗いペーヴメントを、少し行った所で、煙草を吹かしながら様子ありげにたたずんでいる一人の洋服男に出会った。
 青年紳士はなに思ったのか、いきなりその男の肩をポンと叩いて、快活にいった。
「やあ、君はもしや明智探偵事務所のかたじゃありませんか。なにをぼんやりしているんです。今ホテルでは賊が捕まったといって大騒ぎですよ。早く行ってごらんなさい」
 すると、案のじょう、その男は明智の部下であったと見えて、
「人違いじゃありませんか。明智探偵なんて知りませんよ」
 とさすがに用心深い返事をしたが、滑稽にも、言葉と仕草とはうらはらに、青年紳士が二、三歩行くか行かないうちに、もうアタフタとホテルの方へ駈け出していた。
「黒トカゲ」は、クルリと廻れ右をして、そのうしろ姿を見送ったが、こみ上げてくるおかしさに、ついわれを忘れて、
「ウフフフフフフフ」
 と、無気味な笑いをもらすのであった。

怪老人

 明智は敗北した。しかし弁解の余地がないではなかった。少なくとも、依頼を受けた早苗さん保護の役目だけは、完全に果たしたからだ。
 岩瀬氏は、女賊を逃がしたことなどは二の次にして、ただ娘の助かったことを感謝した。明智の手腕を讃美しておかなかった。それに、こういう結果になった大半の責任は、岩瀬氏にあったといってもいいのだ。「黒トカゲ」の変装をわが娘と信じきって、その隣のベッドに寝ながら、賊のからくりを看破《かんぱ》し得なかったのは、なんといっても岩瀬氏の手落ちであった。
 だが、明智はそういうことで慰められはしなかった。相手もあろうに、かよわい女のためにこの敗北を見たかと思うと、悔んでも悔み足りない気持であった。
 殊に、見張りの部下の口から、相手が素早い変装でのがれ去ったことを知ると、思わず「ばかっ」と、その部下をどなりつけたほど腹が立った。
「岩瀬さん、僕は負けました。あれほどのやつが僕のブラック・リストに載っていなかったのは不思議です。たかをくくっていたのがいけなかったのです。しかしもうこの失敗は繰り返しません。岩瀬さん、いま僕は僕の名にかけてちかいます。たとえあいつが再びお嬢さんを狙うようなことがあっても、今度こそは決して負けません。僕が生きているあいだは、お嬢さんは安全です。これだけを、ハッキリ申し上げておきます」
 明智は青ざめた顔に、恐ろしいほどの熱意をこめて断言した。稀代《きだい》の強敵を向こうに廻して、彼の闘争心は燃え上がったのだ。
 読者諸君、この明智の言葉を記憶にとどめておいてください。彼の誓約は果たして守られるか。再び失敗を繰り返すようなことはないか。もしそういうことがあったなら、彼は職業的に自滅するほかはないのだが。
 その翌日、岩瀬氏父子は、予定を変更して、大いそぎで大阪の自宅に帰った。途中が非常に不安だったけれど、ホテル住まいをつづけるよりは、早く自宅に帰って、一家|眷族《けんぞく》の中に落ちつきたかったからだ。
 明智小五郎もそれをすすめ、途中の護衛の任にあたった。ホテルから駅までの自動車、汽車の中、大阪に到着して出迎えの自動車、賊の手はどこに伸びてくるかわからなかったので、それらの点には綿密の上にも綿密の注意がはらわれた。
 結局、早苗さんの一行は無事に自宅に帰ることができたのだ。明智はそれから引きつづき岩瀬家の客となって、早苗さんの身辺をはなれなかった。そして、数日はなんの異変もなく過ぎ去った。
 さて読者諸君、作者は、ここに舞台を一転して、今までこの物語りに一度も現われなかった一人の女性の、不思議な経験を語る順序となった。それは黒トカゲや早苗さんや明智小五郎とは、なんの関係もない事柄のように見えるかもしれない。しかし、敏感な読者は、この一女性の奇異な経験が、事件に関してどんな深い意味を持っているかを、容易にさとられるに違いない。
 それは早苗さんが大阪に帰って間もないある夜のことであったが、同じ大阪市内の盛り場S町の通りを、両側のショウ・ウインドウを眺めながら、用もなげに漫歩している一人の娘があった。
 襟と袖口にチョッピリと毛皮のついた外套が、しかしなかなかよく似合って、ハイ・ヒールの足の運びも軽やかに見えたが、彼女の美しい顔には、なぜか生気がなかった。どことなく捨てばちな、「どうにでもなれ」というような気色がただよっていた。それゆえに、ともすればストリート・ガールなどと見ちがえられそうであった。
 現に、彼女をその種類の女性と考えてか、さいぜんから、それとなく彼女のあとをつけている一人の人物があった。茶色のソフトに、厚ぼったい茶色のオーバー、太い籐《とう》のステッキ、大きなロイド目がね、髪もひげもまっ白なくせに、テラテラとした赤ら顔の、気味のわるい老紳士だ。
 娘の方でも、とっくにそれを気づいていた。だが、彼女は逃げようともしないのだ。ショウ・ウインドウの鏡を利用して、その老人の様子を、何か興味ありげに眺めさえした。
 S町の明るい通りを、ちょっと曲がった薄暗い横町にコーヒーのうまいので有名な喫茶店がある。娘はふと思いついたように、尾行の老紳士をちょっと振り返っておいて、その店へはいって行った。そして、シュロの鉢植えで眼かくしをした隅っこのボックスに腰掛けると、なんと人を喰った娘さんであろう、コーヒーを二つ注文したのである。一つはむろん、あとからはいってくる老紳士のためにだ。
 案のじょう、老人は喫茶店へはいってきた。そして、暗い店内をジロジロ眺め廻していたが、娘を見つけると、この老人も彼女の上を行くあつかましさで、そのボックスへ近づいて行った。
「やあ、ごめんなさい。あんたお一人かな」
 そう言いながら、彼は娘と向かい合って、腰をおろしてしまった。
「おじさん、きっといらっしゃると思って、あたし、コーヒーを注文しておきましてよ」
 娘が老人の倍の大胆さで応酬した。
 さすがの老紳士も、これには面くらったように見えたが、やがて、さも我が意を得たとばかりにニコニコして、娘の美しい顔をまっ正面から眺めながら、妙なことをたずねた。
「どうじゃな、失業の味は?」
 すると、今度は娘の方でギョッとしたらしく、顔を赤くして、どもりどもり答えた。
「まあ、知ってらしたの? あなた、どなたでしょうか」
「フフフフフフ、あんたのちっともご存知ない老人じゃ。だが、わしの方では、あんたのことを少しばかり知っているのですよ。いってみようかね。あんたの名前は桜山葉子、関西商事株式会社のタイピスト嬢であったが、上役と喧嘩して、きょう首になったばかりじゃ。ハハハハハハ、どうだね、当たったでしょう」
「ええ、そうよ。あなたは探偵さんみたいなかたね」
 葉子は、たちまちさいぜんからの捨てばちな表情に返って、そんなことに驚くもんかという調子で、うけ流した。
「まだある。あんたはきょう三時頃に会社を出てから今まで、一度も家へ帰っていない。友だちを訪問しようともしない。ただブラブラと大阪の町じゅうを歩き廻っていた。一体これからどうするつもりなんだね」
 老人は何もかも知っている。彼はきっと、その午後三時から夜ふけまで、ずっと葉子を尾行しつづけていたのにちがいない。一体全体なんの目的で、そんなばかばかしい骨折りをしたのであろう。
「それを聞いてどうなさいますの。で、もしあたしが今晩からストリート・ガールに転業したとしたら……」
 娘がやけっぱちな薄笑いを浮かべて言った。
「ハハハハハハ、わしがそういう不良老人に見えるかね。ちがうちがう。それに、あんたはそんなまねのできるたちじゃない。わしが知らんと思っているのかね、二時間ほど前、君が薬屋の店へはいって、買物をしたのを」
 老紳士は、どうだというように、グッと葉子の眼を見すえた。
「ホホホホホホ、これですか。眠り薬よ」
 葉子はハンド・バッグからアダリンの函を二つ出して見せた。
「あんたはその若さで不眠症かね。まさかそうじゃあるまい。それに、アダリン二た函というのは……」
「あたしが自殺するとおっしゃるの?」
「ウン、わしは若い女性の気持が、まんざらわからぬ男じゃない。おとなたちには想像もできない青春の心理じゃ。死が美しいものに見えるのじゃ。けがれぬからだで死んで行きたいという処女の純情じゃ。そしてお隣には、やけっぱちな、われとわが肉体を泥沼へ落としこもうとするマゾヒズムがいる。ホンの紙一重のお隣同士じゃ。あんたがストリート・ガールなんて言葉を口ばしるのも、アダリンを買ったのも、みんな青春のさせるわざじゃよ。」
「で、つまり、あたしに意見をしてくださろうってわけですの?」
 葉子は興ざめ顔に、突き放すようにいう。
「いや、どうしまして、意見なんて野暮ったいことはしませんよ。意見じゃない。あんたの窮境を救ってあげようというのじゃ」
「ホホホホホホ、まあそんなことだろうと思ってましたわ。ありがと。救って頂いてもよくってよ」
 彼女はまだ誤解しているのか、さもおかしそうに冗談らしく答える。
「いや、そういう品《ひん》のわるい口をきいてはいけません。わしはまじめに相談しているのじゃ。あんたをお囲いものにしようなんて、へんな意味は少しもない。だが、あんたはわしに雇われてくれますか」
「ごめんなさい。それ、ほんとうですの?」
 やっと葉子にも、老人の真意がわかりはじめた。
「ほんとうですとも。ところで、あんたは関西商事で、失礼じゃが、いくら俸給をもらっていましたね」
「四十円ばかり……」
「ウン、よろしい。ではわしの方は、月給二百円ということにきめましょう。そのほかに、宿所も、食事も、服装もわしの方の負担です。それから、仕事はというと、ただ遊んでいればいいのじゃ」
「ホホホホホホ、まあすてきですわね」
「いや、冗談だと思われては困る。これには少しこみ入った仔細があって、雇い主の方ではそれでも足りないくらいに思っているの。それはそうと、あんた両親は?」
「ありませんの。生きていてくれたら、こんなみじめな思いをしなくってもよかったのでしょうけれど」
「すると、今は……」
「アパートに一人ぼっちですの」
「ウン、よしよし、万事好都合じゃ。それでは、あんたはこのまますぐ、わしと同道してくださらんか。アパートへは、あとからわしの方でよろしく話しておくことにするから」
 実に奇妙な申し出であった。普通の場合なれば、とうてい承諾する気にはなれなかったにちがいない。だが、桜山葉子はその時、貞操をさえ売ろうとしていたのだ。自殺をさえ考えていたのだ。そのやけっぱちな気持が、つい彼女をうなずかせてしまった。
 老紳士は喫茶店を出ると、タクシーを拾って、彼女を、見知らぬ場末町の、みすぼらしい煙草屋の二階へつれて行った。そこは畳の赤茶けた、なんの飾りもない六畳の部屋で、品物といっては、隅っこに小さな鏡台とトランクが一つ置いてあるばかりだ。
 ますます奇怪な老人の行動であったが、葉子はそこへ着くまでの車中で、老人からこの不思議な雇傭契約の秘密を、ある程度まで聞かされていたので、もう少しも不安は感じなかった。むしろ彼女の奇妙な役割に少なからぬ興味を持ちはじめていた。
「では、一つ着がえをしてもらおう。これもあんたを雇い入れるについての一つの条件なのじゃ」
 老紳士はトランクの中から、ちょうど葉子の年頃に似合いの、はでな模様の和服の一と揃いと、帯、長襦袢《ながじゅばん》、毛皮の襟のついた黒いコート、それから草履《ぞうり》までも、残りなく揃った衣裳を取り出して、
「小さな鏡で、なんだけれど、一つうまく着がえをしてくれたまえ」
 と言い残して階下へ降りて行った。葉子はいわれるままに着がえをすませたが、そうして高価な和服に包まれた気持は、決して不快なものではなかった。
「うまいうまい。それでいい。実によく似合ったぞ」
 いつの間にか老紳士があがってきて、彼女のうしろ姿に見とれていた。
「でも、この着物にこの髪ではなんだか変ですわね」
 葉子は鏡をのぞき込みながら、少しはにかんでいう。
「それも、ちゃんと用意がしてある。ほら、これだ。これをかぶってもらわなくてはならんのだ」
 老人はそういって、さいぜんのトランクから、白布にくるんだものを取り出した。それをほどくと、中から無気味な髪の毛の塊まりが出てきた。それは上品な洋髪のカツラであった。
 老人は葉子の前に廻って、上手にそのカツラをかぶせてくれた。鏡を見ると、おやっと思うほど顔が変っている。
「それからこれじゃ。少し度があるけれど、我慢してくれたまえ」
 そういって老紳士がさし出したのは、縁なしの近眼鏡であった。葉子はそれをも、ひとことも反問しないで眼に当てた。
「さあ、もう時間がない。すぐに出かけることにしよう。約束は十時かっきりなんだから」
 老人がせき立てるので、葉子は大いそぎで、ぬぎ捨てた洋服を丸めて、トランクに押しこんでおいて、階段を降りた。
 煙草屋を出て、少し行った大通りに、一台の自動車が待っていた。さいぜん乗ってきたタクシーではない。やっぱり、ボロ車ではあったけれど、運転手はなかなか立派な男で、老紳士とも知り合いらしく見えた。
 二人が乗りこむと、指図も待たず、車は走り出した。街燈の明かるい大通りを幾曲がりして、やがて暗闇の郊外に出た。
「来ましたが、時間はどうでしょうか」
 運転手がうしろを向いてたずねる。
「ウン、ちょうどいい。かっきり十時だ。さあ、あかりを消したまえ」
 運転手がスイッチをひねると、ヘッド・ライトも、テイル・ライトも、客席の豆電燈も、すべての電燈が消え去って、闇の中を、闇の車が走るのだ。
 程もなく、自動車は、どこかの大きな邸宅のコンクリート塀にそって徐行していた。半町おきほどに立っている常夜燈の微光によって、わずかにそれと知られる。
「さあ葉子さん、用意をして、素早くやるんだよ。いいかね」
 老人が競技選手を力づけるようなことをいう。
「ええ、わかってますわ」
 葉子はこの不可思議な冒険に、わくわくしながら、しかし元気よく答えた。
 突如、車はその邸宅の通用門らしいくぐり戸の前に停車した。と同時に、そとから、何者かが自動車のドアをサッとひらいて、「早く」と、ただ一ことささやいた。
 葉子は無言のまま、夢中で車を飛び出すと、あらかじめ言いふくめられていた通り、いきなり、その小さなくぐり戸の中へ駈けこんで行った。
 すると、それと入れ違いに、これは潜り戸の内側から、葉子の肩にぶっつかって、鞠《まり》のようにころげ出し、自動車の、今まで葉子がかけていた座席へ飛びこんだ人がある。
 葉子はとっさの場合、遠くの電燈のほのかな光の中で、その人を見た。そして思わずゾッとしないではいられなかった。
 彼女は幻を見たのであろうか。それとも、さいぜんからの出来事がすべて恐ろしい悪夢なのではあるまいか。
 葉子はもう一人の葉子を見たのだ。むかし離魂病という病《やまい》があったことを聞いている。もしや彼女は、その奇病にとりつかれたのではないだろうか。
 桜山葉子が二人になったのだ。一人は潜り戸の中へ、一人はその袖をくぐって自動車へ。髪かたちから着衣まで、これほどよく似た人間があってよいものか。いやいや、そればかりではない。彼女を真底から怖がらせたのは、そのもう一人の女性の顔までが、葉子とそっくりに見えたことだ。
 だが、もう一人の女性を乗せた自動車は、彼女の底知れぬ恐怖を後にして、もときた道へと黒い風のように消え去って行った。
「さあ、こっちへお出でなさい」
 ふと気がつくと、闇の中に、さいぜん自動車の扉をひらいた男の黒い影が、彼女の耳元に顔を寄せていた。

クモと胡蝶と

 大阪の南の郊外、南海電車沿線H町に、大宝石商岩瀬庄兵衛氏の邸宅がある。このごろその邸をとりまくコンクリート塀の頂きに、一面にガラスの破片が植えつけられた。
「どうしたんだろう。岩瀬さんは、あんな高利貸みたいなまねをする人柄じゃないんだが」と、付近の人々はいぶかしく思わないではいられなかった。
 だが、岩瀬邸の異変は、それだけにとどまったのではない。先ず第一に、門長屋の住人が変った。これまでは岩瀬商会の古い店員が住んでいたのに入れかわって、土地の警察に勤務している剣道の剛の者と噂の高い、某警官の一家が引越してきた。
 庭園には所々に柱を立てて、明かるい屋外電燈が取りつけられ、建物の要所要所の窓には、さも頑丈な鉄格子がはめられた。その上、従来からいる書生のほかに、筋骨たくましい二人の青年が、用心棒として邸内に寝泊りすることになった。
 岩瀬邸はいまや小さい城廓《じょうかく》であった。
 そもそも何を恐れて、これほどの用心をしなければならなかったのか。ほかではない、女アルセーヌ・リュパンとまでいわれる、女賊「黒トカゲ」の襲来が予知されていたからだ。岩瀬氏の最愛のお嬢さんの身辺に、世にも恐ろしい危険がせまっていたからだ。
 東京のKホテルでは、名探偵明智小五郎にさまたげられて、女賊の誘拐の企ては失敗に終ったけれど、それであきらめてしまったのではない。彼女はかならず、かならず、早苗さんをうばい取って見せると揚言しているのだ。いずれはもうこの大阪へ潜入しているにちがいない。ひょっとしたら、H町の岩瀬邸の間近くまで忍び寄っていないとも限らぬのだ。
 魔術師のような女賊の手なみのほどは、Kホテルの事件で肝《きも》に銘じている。岩瀬庄兵衛氏ならずとも、これほどの用心をしないではいられなかったに違いない。
 当《とう》の早苗さんは可哀そうに、奥の一間、例の鉄格子を張った部屋に、監禁同然の身の上となった。次の間には、早苗さんお気に入りの婆や、そのもう一つ手前の部屋には、東京から出張してきた明智小五郎が寝泊りをして、玄関わきには三人の書生、そのほか数人の男女の召使いたちが、早苗さんの部屋を遠巻にして、事あらばわれ一番に駈けつけんものと、手ぐすね引いて待ちかまえていた。
 早苗さんは部屋にとじこもったまま、一歩も外出しなかった。時たま庭園を散歩するのにも、必ず明智なり書生なりが付きそっていた。
 いかな魔術師の「黒トカゲ」でも、これでは手も足も出ないにちがいない。それかあらぬか、早苗さんたちが本邸に帰ってから、もう半月ほども経過したけれど、女賊のけはいは全く感じられなかった。
「わしはどうやら臆病すぎたようだわい。あいつのおどし文句をまに受けたのは、ちとおとなげなかったかもしれんて。それとも、あいつは、こちらの用意を知って、とても手出しができないとあきらめてしまったのだろうか」
 岩瀬氏はだんだんそんなふうに考えるようになった。
 だが、賊の方の心配が薄らぐと、今度は娘のことが心がかりになり出した。
「わしの用心はちと手きびし過ぎたかもしれない。娘を座敷牢へなどとじこめるようにしておいたのがいけなかったかもしれない。それでなくてもビクビクしている娘を、一そうおじけさせてしまった。あれのこの頃の様子はまるで人が変ったようだ。青い顔をしてふさぎこんでばかりいる。わしが物をいっても返事をするのもいやそうにして、そっぽを向いてしまう。どうかして、少し気を引き立ててやりたいものだが」
 そんなことを考えていた時、岩瀬氏はふと、きょうでき上がってきた、応接室の洋家具のことを思い出した。
「ウン、そうだ。あれを見せたら、きっと喜ぶにちがいないて」
 洋家具というのは、贅沢な椅子のセットで、一と月ばかり前それを注文する時、椅子に張る織物を、早苗さんが選定したのであった。
 岩瀬氏はこの思いつきに元気づいて、さっそく奥の早苗さんの居間へやって行った。
「早苗、お前の好みで注文した椅子が、きょうできてきたんだよ。もう応接間にすえつけてある。一度見にきてごらん。思ったよりも立派な出来栄えだったよ」
 ふすまをあけて、部屋をのぞきこみながら声をかけると、机にもたれていた早苗さんが、ビクッとしたように振り向いたが、すぐまたうなだれてしまって、
「そうですか、でも、あたし今……」
 と、いっこうに気乗りのしない返事だ。
「そんなあいそうのない返事をするものじゃない。まあいいからきてごらんなさい。婆や、ちょっと早苗を借りて行きますよ」
 岩瀬氏は、隣室の婆やにそうことわって、進まぬ早苗さんの手を取るようにして、つれ出して行った。
 婆やのつぎの明智探偵の部屋は、あけ放ったままからっぽになっていた。彼はやむを得ない所用があって、午前から外出したまま、まだ帰らないのだ。彼が出かける時、岩瀬氏の在宅をたしかめ、召使いたちにも、早苗さんから眼をはなさぬよう、くどく注意を与えて行ったことはいうまでもない。
 やがて、早苗さんはお父さんのあとにしたがって、広い応接間にはいった。
「どうだね、少し派手すぎるくらいだったね」
 岩瀬氏は言いながら、その新らしい椅子の一つへ腰をおろした。
 丸テーブルをかこんで、ソファ、アームチェア、婦人用のもたれのない椅子、木製のもたれの小型の椅子など、つごう七脚のセットが、はでやかに並んでいた。
「まあ、きれいですこと……」
 無口の早苗さんがやっと物を言った。いかにもその椅子が気に入ったらしい。彼女は長椅子に腰をかけてみた。
「少し固いようですわ」
 何かしら普通の長椅子とは、掛け心地が違うような感じがした。
「そりゃ、こしらえたてには、少し固いものなんだよ。そのうちになれて柔らかみが出てくるだろう」
 もしその時、岩瀬氏も早苗さんと並んで、その長椅子に腰かけてみたならば、彼とても不審をいだかないではいられなかったにちがいない。長椅子の掛け心地は、それほど異様であった。だが、彼は一つのアームチェアに沈みこんだまま、ほかの椅子を試みようともしなかったのだ。
 そうしているところへ、小間使いがドアから顔を出して、電話を知らせた。大阪の店からの用件らしい。岩瀬氏は奥の居間の卓上電話へといそいで出て行った。だが、さすがに用心深く、書生部屋に声をかけて、応接室の早苗さんを注意するようにと命じることを忘れなかった。
 主人の声に二人の書生が廊下へ出て、そこで見張り番を勤めた。その廊下の突きあたりが応接間のドアになっていた。書生たちの前を通らないでは、だれも早苗さんのいる部屋へはいることはできないのだ。
 むろん応接間には、庭に面していくつかの窓がひらいていたけれど、それにはすべて、例のいかめしい鉄格子がはめてある。庭からも、廊下からも、早苗さんの身辺に近づく道は、全く杜絶されていた。でなくては、いかに急用の電話とはいえ、岩瀬氏がその部屋に早苗さんを一人ぼっちで残して行くはずはなかった。
 電話の結果、岩瀬氏は急に大阪の店へ出向かなければならなくなった。彼は大急ぎで着がえをして、夫人と小間使いに見送られて、玄関に出た。
「早苗に気をつけてくださいよ。今応接間にいる。書生たちに見張りを言いつけておいたけれど、お前もよく注意してください」
 彼は小間使いに靴の紐を結ばせながら、夫人に幾度も念を押した。
 夫人は主人が自動車におさまるのを見送っておいて、娘の様子を見ようと応接間に近づいたが、気がつくと、ピアノの音が聞こえている。
「まあ、早苗さんがピアノをひいている。近頃にないことだわ。いいあんばいだ。じゃソッとしておいてやりましょう」
 彼女はなんとなく軽やかな気持になって、書生たちに見張りをおこたらないように注意を与えた上、居間の方へ引き返して行った。
 応接間の中の早苗さんは、父親が行ってしまうと、一つ一つの椅子の掛け心地をくらべてみたり、立って窓のそとを眺めたりしていたが、やがてピアノの蓋をひらいて、でたらめにキイを叩きはじめた。叩いているうちに興が乗って、童謡の曲になったり、それがいつの間にかオペラの一節に変っていたりした。
 しばらくはピアノに夢中になっていたが、それにも飽きて、もう居間へ帰りましょうと立ちあがって、ひょいと振り向いた時、彼女はそこに、実に思いもかけない恐ろしい物の姿を発見して、ギョッと立ちすくんでしまった。
 ああ、どうしてこんなことが起こり得たのであろう。窓からも廊下からも、その部屋へ忍びこむ道は全く杜絶していたのだ。ピアノとか長椅子とか、そのほかの調度のうしろには人がかくれるほどのすき間はないのだし、近頃の低い椅子では、その下へひそむことなど思いもよらぬ。つい今し方までこの部屋には、早苗さんのほかに生きたものとては、猫一匹さえもいなかったのだ。
 それにもかかわらず、今早苗さんの眼の前に、一人の異様な人物が立ちはだかっていたではないか。モジャモジャの髪の毛、顔じゅうを薄黒くした無精ひげ、ギラギラと油断なく光る恐ろしい眼、ところどころに破れの見えるきたない背広服……どこをどうしてはいってきたのか、このおばけみたいな男は、考えてみるまでもない、女賊「黒トカゲ」の手下のやつにきまっている。
 ああ、とうとう、予期したものがやってきたのだ。しかも、人々がやや油断しはじめた虚につけこんで、魔術師のような怪賊は、やすやすと警戒を突破し、幽霊みたいに、ドアのすき間から忍びこんできたのだ。
「おっと、声を立てちゃいけないよ。手荒なことはしやしない。おれたちにも大切なお嬢さんだからね」
 曲者《くせもの》が低い声で、おどしつけた。
 だが、そんな注意を受けるまでもなく、かわいそうな早苗さんは、恐ろしさに、からだじゅうがしびれたようになって、身動きも、叫び声を立てることもできなくなっていた。
 賊はニヤリと無気味な微笑を浮かべて、素早く早苗さんの背後に廻り、ポケットから丸めたハンカチのようなものを取り出すと、やにわに彼女におどりかかって、そのハンカチで口をおさえてしまった。
 早苗さんは、肩から胸にかけて、蛇にしめつけられたような、いやらしい圧力を感じた。口はハンカチのために、にわかにムッと息苦しくなった。いくらなんでも、もうじっとしてはいられない。彼女はかよわい少女の力のあらんかぎり、曲者の手から逃がれようともがいた。クモの糸にかかった美しい一匹の蝶のように、みじめに、物狂おしくはね廻った。
 だが、やがて、彼女の活溌に動いていた手足が、徐々に力を失い、いつしか、ぐったりと静まり返ってしまった。麻酔剤のききめである。
 曲者は、蝶が羽ばたきしなくなると、そのからだをソッとジュウタンの上に寝かせ、はだかった着物の裾を合わせてやりながら、美しく眠った早苗さんの顔を眺めて、またしてもニヤニヤと、底気味のわるい微笑を浮かべるのであった。

令嬢変身

 応接間からもれていたピアノの音がやんでしまってからもう三十分もたったのに、早苗さんは、いっこう出てくる様子がない。ついさいぜんまでは、コトコトと物を動かす音などが聞こえていたが、それさえ今はパッタリとだえて、ドアの向こう側は死んだように静まりかえっている。
「おい、長いね。いいかげんに部屋へ帰ってくれればいいのに」
「それにしてもばかに静かになってしまったじゃないか。へんだぜ、なんだか」
 見張りの書生が、辛抱しきれなくなって、ささやきはじめたところへ、これもお嬢さんを案じた婆やが来合わせた。
「お嬢さんは、応接間にいらっしゃるの? 旦那様もごいっしょなんだろうね」
 婆やは主人の外出を知らないでいたのだ。
「いや、ご主人はさっき、店から電話がかかって、大阪へ出かけられましたよ」
「おやおや、じゃあ、あすこにお嬢さん一人ぼっちなの。いけないねえ、そんなことしちゃあ」
 婆やは不服顔だ。
「だから、僕らが見張りをしているんだけれど、さっきからだいぶ時間がたつのに、いっこう出ていらっしゃらない。それにあまり静かなので、少しへんに思っているのですよ」
「じゃあ、わたしが行って見ましょう」
 婆やはそういって、ツカツカとドアに近づき、なにげなくそれをひらいて、中をのぞいて見たが、のぞいたかと思うと、またすぐしめて、いきなり書生たちの所へ走りもどってきた。どうしたのか彼女の顔はまっさおになっている。
「大変ですよ、ちょっと行って見てください。へんなやつが長椅子の上に寝そべっているの。それにお嬢さんは、あすこには見えませんよ。早くあいつをつかみ出してください。まあ気味のわるい」
 書生たちはむろんそんなことを信じなかった。この婆さん気でも違ったのではないかと疑った。しかし、ともかくも行って見るほかはない。彼らはいきなりドアをあけて、応接室へ飛びこんで行った。
 見ると、驚いたことには、婆やの言葉は決して嘘ではなかった。たしかに長椅子の上に、グッタリと死んだようになって、寝そべっているやつがある。ボロボロの背広を着た、顔じゅう無精ひげの、乞食みたいな男だ。
「こらっ、貴様何者だっ」
 柔道初段の豪傑書生が、曲者の肩に手をかけてゆすぶった。
「わあ、たまらねえ。こいつ酔っぱらいだぜ。長椅子の上へ小間物店をならべやがった」
 彼は滑稽な身振りで飛びのいて鼻をつまんだ。
 なるほど、酔っぱらいの証拠には、男の顔は異様に青ざめていたし、長椅子の下には、ウイスキーの大瓶が、からっぽになってころがっていた。それにしても、その部屋で酒を飲んだものとすれば、少し酔いの廻り方が早すぎるように思われるのだが、書生たちはそこまで気がつかなかった。
 ゆり起こされた曲者は、薄眼をあいて、きたなくよごれた口のはたを、赤い舌でペロペロとなめ廻しながら、フラフラと上半身を起こした。
「すまねえ、おらあ、もうだめだよ。苦しくって、とても、もう飲めねえ」
 この紳商の応接室を、酒場とでも思いちがえているのか、男はわけのわからぬくだを巻きはじめた。
「馬鹿っ、ここをどこだと思っている。それに、貴様、一体どうしてここへはいってきたんだ」
「え、ウン、どうしてはいってきたっていうのか。そりゃおめえ、蛇《じゃ》の道はへびだあな。どこにうめえ酒がかくしてあるくれえのことあ、ちゃあんと、ご存知だってことよ。ヘッヘッヘッヘッヘ」
「それよりも君、お嬢さんの姿が見えないんだぜ。こいつが、どうかしたんじゃないかい」
 別の書生が、それに気づいて注意した。
 実に不思議なことには部屋じゅうくまなく探してみたけれど、えたいの知れぬ酔っぱらいのほかには、人の影もないのであった。一体これはどうしたというのだ。あの美しいお嬢さんが、たった三十分かそこらのあいだに、まるで天勝嬢の魔術みたいに、このきたならしい酔っぱらいに変ってしまったのであろうか。前後の事情だけから考えると、いくらばかばかしくても、どうもそうとしか思えないのだが。
「おい、お前、いつここへきたんだ。ここに美しいお嬢さんがいらしったはずだが、お前見なかったか。おい、ハッキリ返事をしろ」
 肩をこづき廻されても、男はいっこう無感覚だ。
「へっ、美しいお嬢さんだって、おなつかしいね。つれておいで、ここへ。おらア、久しく美しいお嬢さんの顔を拝まねえんだ。拝ましてくんな。早くさあ。早く、ここへ引っ張ってこいってんだ。ワハハハハ」
 実にたわいがなかった。
「こんなやつに、何を聞いたって無駄だよ。ともかく警察へ電話をかけて、引き渡すことにしようじゃないか。いつまでもここへ置いといたら、部屋じゅうヘドだらけになっちまうぜ」
 岩瀬夫人は、婆やの知らせに驚いて駈けつけたが、人一倍潔癖な彼女は、乞食みたいな男がヘドをはいていると聞くと、部屋へはいる勇気がなく、女中たちにとりまかれてドアのそとからこわごわのぞいていたのだが、今の書生の言葉を聞くと、
「ああ、それがいい、早くおまわりさんを呼んでください。だれか警察へ電話を」
 と指図した。
 そして、結局、そのえたいの知れぬ無頼漢《ぶらいかん》は、土地の警察の留置場にぶちこまれたのだが、二人の警官が、曲者の両手をつかんで、ぶら下げるようにしてつれ去ると、あとには、彼の吐いたもののために、無残によごれた長椅子と、耐えがたい臭気とが残った。
「できて来たばかりの椅子を、まあもったいない」婆やが顔をしかめながら遠くからそれを眺めていうのだ。
「おやおやヘドばかりじゃありませんよ。大へんなかぎ裂きだ。まあ気味のわるい。あいつ刃物でも持っていたのでしょうか。長椅子のきれがひどく破けてますよ」
「いやだねえ、せっかく綺麗になったばかりなのに。そんなもの応接間に置けやしない。だれか家具屋へ電話をかけてね、取りにくるようにそういってください。張りかえなくっちゃ仕方がない」
 潔癖家の岩瀬夫人は、一刻でも、そのきたないものを、邸内に置くにたえなかったのだ。
 さて、酔いどれ騒ぎが一段落すると、今度はにわかに早苗さんのことが気になりはじめた。主人岩瀬氏にこのことが急報されたのはいうまでもない。明智の行先もわかっていたので、急いで帰るように電話がかけられた。
 同時に、邸内の大捜索が開始された。出張してきた三人の警官と、書生をはじめ召使いたちの総動員で、応接室や早苗さんの居間を手はじめに、階上、階下、庭園から縁の下まで、残る所もなく探し廻った。
 だが美しいお嬢さんは、朝日にとける葉末の露のように、かげろうとなって蒸発してしまったのであろうか。その姿は、影も形も見えないのであった。

原文 青空文庫より引用
入力: sogo
校正: 大久保ゆう

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