玄奘三蔵院

玄奘三蔵法師について語ろう

今日は玄奘三蔵法師について語ろうと思います。

三蔵法師というと西遊記のお師匠様ですが、ここでは歴史上の人物としての玄奘について触れます。

彼の俗名は陳褘。西暦629年に29歳の玄奘は唐からインドに旅立ち、645年に長安に帰還します。
動機はインド人の翻訳した仏教を学ぶより原典を直接学ぶべき、というのと大乗仏教の観点から、より完全な仏教を中華にもたらさねば、という使命感のようです。

日本で言えば蘇我入鹿が暗殺された頃です。

当時の唐は私的に国外に出る事を禁じていたので、泰州、蘭州、涼州と渡り密出国する事になります。

この当時、中華から天竺に向かった人はけっこういるのですが、現在日本人に聞いて知っているのは概ね玄奘一人です。
なぜかと言えば答えは簡単で、帰還する者がほとんどいないのです。
彼らの行末は4パターン。

  1. 天竺にたどり着き、かつ帰還した者
  2. 天竺にたどり着く前に力尽きた者
  3. 天竺にいる間に死去した者
  4. 天竺からの帰還途中に力尽きた者

死亡する理由は病気、遭難、盗賊の襲撃、野生動物、飢餓、凍死など様々考えられます。
中華から天竺まで徒歩で行くとヒマラヤもエベレストもあり、山賊も横行しているし、高山病ならまだしも疫病にかかるとロクな薬も無い有様で、ほとんどの人間には単なる自殺行為ですが、玄奘は行く先々で厚遇され、とにかく全て乗り越え天竺で仏教を学びます。
当時のインドは単一国家ではなく、複数の国から成る連邦国家みたいなもので、玄奘はそれぞれで珍しさからなのか、中華の情報が欲しいのか歓待されたり軟禁されたり取り合いされたりします。
人に好かれる性質だったのかも知れません。

そして16年ぶりに長安に戻ると、玄奘は中華以西の情勢に実地的に詳しいわけですので外交上貴重な存在ですし、途中途中の国で厚遇された有名な人物ですので皇帝に庇護され、経典七十四部千三百三十八巻の翻訳を国家事業として行います。
唐朝廷は本心からこれをして欲しかったわけではないでしょうが、仏教徒的にはこの功績からクマーラジーヴァという人物と玄奘の二人が二大訳聖と呼ばれ、今日本に伝わっている仏教のかなりの部分が玄奘の影響下にあります。
有名どころでは般若心経などが玄奘訳です。

さらに彼が書いた「大唐西域記」という旅行記が西遊記の元になります。
西遊記の三蔵法師は、生まれた時から一〇八の受難を受けるように運命付けられていて、よく騙されては悟空を疑う人でしたが、現実の玄奘三蔵は自分から飛び込み行く先々で味方を作って乗り越えます。
普通なら即死コースの数々の出来事も、大唐西域記だと観世音菩薩やマイトレイヤーの加護で片付けてしまいます。
このへんの大雑把さが歴史に残る人なのかも知れません。

なお、三蔵法師とは経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶の事です。
圧倒的に玄奘が有名ですが、日本人にも霊仙三蔵法師という人がいます。

国禁を破って出国する人というと、日本だと吉田松陰のイメージがあります。まあ個人の主観ですが。
国学者と仏教徒、帰還と刑死の違いはありますが、意志の強さと言い、人に好かれる所と言い、似た方向性の持ち主だったのではと思います。

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