黒蜥蜴 / 江戸川乱歩(1)

黒蜥蜴 第一夜

暗黒街の女王

 この国でも一夜に数千羽の七面鳥がしめられるという、あるクリスマス・イヴの出来事だ。
 帝都最大の殷賑《いんしん》地帯、ネオン・ライトの闇夜の虹が、幾万の通行者を五色にそめるG街、その表通りを一歩裏へ入ると、そこにこの都の暗黒街が横たわっている。
 G街の方は、午後十一時ともなれば、夜の人種にとってはまことにあっけなく、しかし帝都の代表街にふさわしい行儀よさで、ほとんど人通りがとだえてしまうのだが、それと引き違いに、背中合わせの暗黒街がにぎわい始め、午前二時三時頃までも、男女のあくなき享楽児どもが、窓をとざした建物の薄くらがりの中に、ウヨウヨとうごめきつづける。
 今もいうあるクリスマス・イヴの午前一時頃、その暗黒街のとある巨大な建物、外部から見たのではまるで空家のようなまっ暗な建物の中に、けたはずれな、狂気めいた大夜会が、今、最高潮に達していた。
 ナイトクラブの広々としたフロアに、数十人の男女が、或る者は盃をあげてブラボーを叫び、或る者はだんだら染めのの尖《とんが》り帽子を横っちょにして踊りくるい、或る者はにげまどう小女をゴリラの恰好《かっこう》で追いまわし、或る者は泣きわめき、或る者は怒りくるっている上を、五色の粉紙が雪と舞い、五色のテープが滝と落ち、数知れぬ青赤の風船玉が、むせかえる煙草《たばこ》のけむりの雲の中を、とまどいをしてみだれ飛んでいた。
「やあ、ダーク・エンジェルだ。ダーク・エンジェルだ」
「黒天使の御入来だぞ」
「ブラボー、女王様ばんざい!」
 口々にわめく酔いどれの声々が混乱して、たちまち急霰《きゅうさん》の拍手が起こった。
 自然に開かれた人垣の中を、浮き浮きとステップをふむようにして、室の中央に進みでる一人の婦人。まっ黒なイブニング・ドレスに、まっ黒な帽子、まっ黒な手袋、まっ黒な靴下、まっ黒な靴、黒ずくめの中に、かがやくばかりの美貌が、ドキドキと上気して、赤いばらのように咲きほこっている。
「諸君、御機嫌よう。僕はもう酔っぱらってるんです。しかし、飲みましょう。そして、踊りましょう」
 美しい婦人は、右手をヒラヒラと頭上に打ち振りながら、可愛らしい巻舌で叫んだ。
「飲みましょう。そして、踊りましょう。ダーク・エンジェルばんざい!」
「オーイ、ボーイさん、シャンパンだ、シャンパンだ」
 やがて、ポン、ポンと花やかな小銃が鳴りひびいて、コルクの弾丸が五色の風船玉をぬって昇天した。そこにも、ここにも、カチカチとグラスのふれる音、そして、またしても、
「ブラボー、ダーク・エンジェル!」
 の合唱だ。
 暗黒街の女王のこの人気は、一体どこからわいて出たのか。たとえ彼女の素性は少しもわからなくても、その美貌、そのズバぬけたふるまい、底知れぬ贅沢《ぜいたく》、おびただしい宝石の装身具、それらのどの一つを取っても、女王の資格は十分すぎるほどであったが、彼女はさらにもっともっとすばらしい魅力をそなえていた。彼女は大胆不敵なエキジビショニストであったのだ。
「黒天使、いつもの宝石踊りを所望します!」
 だれかが口を切ると、ワーッというドヨメキ、そして一せいの拍手。
 片隅のバンドが音楽を始めた。わいせつなサキソフォンが、異様に人々の耳をくすぐった。
 人々の円陣の中央には、もう宝石踊りが始まっていた。黒天使は今や白天使と変じた。彼女の美しく上気した全肉体をおおうものは、二筋の大粒な首飾りと、見事な翡翠《ひすい》の耳飾りと、無数のダイヤモンドをちりばめた左右の腕環と、三箇の指環のほかには、一本の糸、一枚の布切れさえもなかった。
 彼女は今、チカチカと光りかがやく、桃色の一肉塊にすぎなかった。それが肩をゆすり、足をあげて、エジプト宮廷の、なまめかしき舞踊を、たくみにも踊りつづけているのだ。
「オイ、見ろ、黒トカゲが這《は》い始めたぜ。なんてすばらしいんだろ」
「ウン、ほんとうに、あの小さな虫が、生きて動きだすんだからね」
 意気なタキシードの青年がささやき交わした。
 美しい女の左の腕に、一匹の真黒に見えるトカゲが這っていた。それが彼女の腕のゆらぎにつれて、吸盤のある足をヨタヨタと動かして、這い出したように見えるのだ。今にもそれが、肩から頸《くび》、頸から顎《あご》、そして彼女の真赤なヌメヌメとした、唇までも、這いあがって行きそうに見えながら、いつまでも同じ腕にうごめいている。真にせまった一匹のトカゲの入墨《いれずみ》であった。
 さすがにこの恥知らずの舞踊は四、五分しかつづかなかったが、それが終ると、感激した酔いどれ紳士たちが、ドッと押し寄せて、何か口々に激情の叫びをあげながら、いきなり裸美人《らびじん》を胴上げにして、お御輿《みこし》のかけ声勇ましく、室内をグルグルと廻り歩いた。
「寒いわ、寒いわ、早くバス・ルームへつれて行って」
 御託宣のまにまに、御輿は廊下へ出て、用意されたバス・ルームへと練って行った。
 暗黒街のクリスマス・イヴは、この婦人の宝石踊りを最後の打ちどめにして、人々はそれぞれの相手と、ホテルへ、自宅へ、三々五々帰り去った。
 お祭りさわぎのあとの広間には、五色の粉紙とテープとが、船の出たあとの波止場のように、きたならしく散りしいて、まだ浮力を残した風船玉が、ちらほらと、天井を這っているのも物さびしかった。
 その舞台裏のように荒涼とした部屋の、片隅の椅子《いす》に、一かたまりのボロ屑《くず》みたいに、あわれに取り残されている若者があった。肩の張った派手な縞《しま》のサック・コートに赤いネクタイ、どこやらきざな風体の、拳闘選手のように鼻のひしゃげた、筋骨たくましい、一くせありげな男だ。それが、風采に似合わず、クシュンとしおれかえってうなだれているものだから、ついボロ屑にも見えたのだが。
(人の気も知らないで、何をグズグズしてるんだろうなあ。こっちあ、命《いのち》がけのどたん場なんだぜ。こうしているうちにも、デカがふみこんで来やしないかと、気が気じゃありゃしねえ)
 彼はブルブルと身ぶるいしてモジャモジャの髪の毛を五本の指でかきあげた。
 そこへ制服を着た男ボーイが、テープの山をふみ分けて、ウィスキーらしいグラスを運んできた。彼はそれを受け取ると、「おそいじゃねえか」と叱っておいて、グッと一と息にあおって、「もう一つ」とお代わりを命じた。
「潤ちゃん、待たせちゃったわね」
 そこへやっと、若者の待ちかねていた人が現われた。ダーク・エンジェルだ。
「うるさい坊ちゃんたちを、うまくまいて、やっと引き返してきたのよ。さあ、あんたの一生に一度のお願いっていうのを聞こうじゃありませんか」
 彼女は前の椅子に腰かけて、まじめな顔をして見せた。
「ここじゃだめです」
 潤ちゃんと呼ばれた若者は、やっぱり渋面《じゅうめん》を作ったまま、沈んだ調子で答える。
「人に聞かれると悪いから?」
「ええ」
「クライム?」
「ええ」
「傷つけでもしたの」
「いいや、そんなことならいいんだが」
 黒衣婦人は、のみこみよく、それ以上は聞かないで立ちあがった。
「じゃ外《そと》でね。G街は地下鉄工事の人夫のほかには、人っ子一人通ってやしないわ。あすこを歩きながら聞きましょう」
「ええ」
 そしてこの異様な一対は、みにくい赤ネクタイの若者と、目ざめるばかり美しい黒天使とは、肩を並べて建物を出た。
 外《そと》は街燈とアスファルトばかりが目立つ、死にたえたような深夜の大道であった。コツコツと、二人の靴音が一種の節を作ってひびいていた。
「一体どんな罪を犯したっていうの。潤ちゃんにも似合わない、ひどいしょげかたね」
 黒衣婦人が切り出した。
「殺したんです」
 潤ちゃんは、足もとを見つづけながら、低い無気味な声で言い切った。
「まあ、だれをさ」
 黒衣婦人は、この驚くべき答えに、さして心を動かした様子もなかった。
「色敵《いろがたき》をです。北島の野郎と咲子のあま[#「あま」に傍点]をです。」
「まあ、とうとうやってしまったの……どこで?」
「やつらのアパートで。死骸は押入れの中に突ッこんであるんです。あすの朝になったら、ばれるにきまってます。三人のいきさつは、みんなが知っているんだし、今夜あいつたちの部屋へはいったのは僕だということが、アパートの番人やなんかに知れているんだから、捕《つか》まったらおしまいです……僕はもう少ししゃばにいたいんです」
「高飛びでもしようっていうの」
「ええ……マダム、あんたはいつも、僕を恩人だといってくれますね」
「そうよ。あの危ない場合を救ってもらったのだもの。あれからあたし、潤ちゃんの腕っぷしにほれこんでいるのよ」
「だから、恩返しをしてください。高飛びの費用を、千円ばかり僕に貸してください」
「それは、千円ぽっちわけないことだけれど、あんた、逃げおおせると思っているの。だめよ。横浜か神戸の波止場でマゴマゴしているうちに、捕まってしまうのが落ちだわ。こんな場合に、あわ[#「あわ」に傍点]を食って逃げ出すなんて愚の骨頂よ」
 黒衣婦人は、さも、そういうことには慣れきっているような口ぶりであった。
「じゃあ、この東京にかくれていろっていうんですか」
「ああ、まだしもその方がましだと思うわ。しかし、それでもあぶないことはあぶないのだから、もっとうまい方法があるといいんだけれど……」
 黒衣婦人はつと立ち止まって、何か思案をしている様子であったが、突然妙なことをたずねた。
「潤ちゃんのアパートの部屋は、五階だったわね」
「ええ、だが、それがどうしたというんです」
 若者はいらいらして答えた。
「まあ、素敵だ」美しい人の唇から、びっくりするような声がほとばしった。「うまいことがあるのよ。まるで申し合わせでもしたようだわ。ねえ、潤ちゃん、あんたまったく安全になれる方法があるわ」
「なんです、それは。早く教えてください」
 黒天使は、なぜかえたいの知れぬ薄笑いを浮かべて、相手の青ざめた顔をじっとのぞきこみながら、一語々々力を入れて言った。
「あなたが死んでしまうのよ。雨宮潤一という人間を殺してしまうのよ」
「え、え、なんですって?」
 潤一青年は、あっけにとられて、ポカンと口をあいて、暗黒街の女王の美しい顔をみつめるばかりであった。

地獄風景

 雨宮潤一が、約束の京橋の袂《たもと》に立ちつくして、黒衣婦人を待ちかねているところへ、一台の自動車が停車して、黒の背広に鳥打帽をかぶった若い運転手が、窓から手まねきをした。
「いらない、いらない」
 流しタクシーにしては、少し車が上等すぎるがと思いながら、手まねで追いやろうとすると、
「僕だよ、僕だよ、早く乗りたまえ」
 運転手が、笑いをふくんだ女の声で言った。
「ああ、マダムか。あんた運転ができるんですか」
 潤一青年は、あの宝石踊りの黒天使が、たった十分ほどのあいだに背広の男姿になって、自動車を運転してきたのを知ると、一驚を喫《きっ》しないではいられなかった。もう一年以上のつき合いだけれど、この黒衣婦人の素姓は、彼にもまったく謎《なぞ》であった。
「軽蔑《けいべつ》するわね、僕だって車くらい動かせるさ。そんな妙な顔してないで、早くお乗りなさい。もう二時半よ。早くしないと、夜があけちゃうわ」
 潤一が面くらいながら、客席に腰をおろすと、自動車は邪魔者のない夜の大道を、矢のように走りだした。
「この大きな袋、なんです」
 彼はふとクッションの隅に丸めてあった、大きな麻袋に気づいて、運転台にたずねかけた。
「その袋があんたを救ってくれるのよ」
 美しい運転手が振り向いて答えた。
「なんだかへんだなア。一体これからどこへ、何をしに行くんです。僕、少し気味がわるくなってきた」
「G街の英雄が弱音《よわね》をはくわね。なんにも聞かないって約束じゃないか。僕を信用しないとでもいうの?」
「いや、そういうわけじゃないけど」
 それからは、何を話しかけても運転手は前方をみつめたまま、一ことも答えなかった。
 車はU公園の大きな池の縁をまわって坂道をのぼると、長い塀ばかりがつづいている妙にさびしい場所で停車した。
「潤ちゃん、手袋持っているでしょう。外套をぬいで、手袋をはめて、上衣のボタンをすっかりはめて、帽子をまぶかにおかぶりなさい」
 そう命令しながら、男装の麗人は、自動車のヘッド・ライトもテイル・ライトも車内の豆電燈も、すっかり消してしまった。
 あたりは街燈もないくらやみであった。その闇の中に、まったく光を消し、エンジンを止めた車体が、めくらのように立ちすくんでいた。
「さあ、その袋を持って、車をおりて僕のあとからついてくるのよ」
 潤一が命ぜられた通りにして、車を出ると、黒い背広の襟《えり》を立てた西洋泥棒みたいな風体の黒衣婦人は、彼女も手袋をはめた手で、彼の手を取って、グングンひきずるようにして、そこにひらいていた門の中へはいって行く。
 空を覆う巨木の下をいくども通りすぎた。広々とした空地を横ぎった。なにかしら横に長い西洋館のそばを通った。ちらほらと螢火のような街燈が、わずかに見えるばかりで、行く手はいつまでも闇であった。
「マダム、ここT大学の構内じゃありませんか」
「シッ、物をいっちゃいけない」
 握った手先にギュッと力をこめて叱られた。凍るような寒さの中に、つなぎ合わせた手の平だけが、二重の手袋を通して暖かく汗ばんでいる。だが、殺人犯の雨宮潤一は、この際「女」を感じる余裕など持たなかった。
 闇を歩いていると、ともすれば、つい二、三時間前の激情がよみがえり、彼のかつての恋人の咲子が、喉《のど》をしめつけられながら、歯のあいだから舌を出して、口の端からタラタラと血を流して、牛のように大きな眼で、彼をにらみつけた形相《ぎょうそう》が、空中を引っかくようにした断末魔の五本の指が、行く手一ぱいの巨大な幻となって、彼をおびやかした。
 しばらく行くと、広い空地のまん中に、赤煉瓦らしい平家の洋館がポッツリと建って、そのまわりをこわれかけた板塀がかこんでいた。
「このなかよ」
 黒衣婦人は低くつぶやいて、板戸の錠をさがしていたが、合鍵を持っていたのか、カチカチと音がすると、なんなくそれがひらいた。
 塀の中へはいって、板戸をしめると、彼女ははじめて用意の懐中電燈をつけ、地面を照らしながら建物の方へ進んで行く。地面には一面に枯葉がみだれて、住む人もない化物屋敷へでもふみこんだ感じである。
 三段ほどの石段をあがると、白ペンキのところがまだらにはげた手すりの、ポーチのようなものがあって、そこのこわれた漆喰《しっくい》を踏んで五、六歩行ったところに、古風ながっしりしたドアがしまっている。
 黒衣婦人は、それをまたカチカチと合鍵でひらいて、さらに同じようなドアをもう一つひらくと、ガランとした部屋に出た。外科病院に行ったような、強烈な消毒剤のにおいが、なにかしら一種異様の甘ずっぱいにおいとまじって鼻をつく。
「ここが目的の場所よ。潤ちゃん、あんた何を見ても、声を立てたりしちゃいけませんよ。この建物にはだれもいないはずだけれど、塀のそとをときどき巡回の人が通るんだから」
 黒天使のささやき声が、おびやかすように聞こえた。
 潤一青年は、なんともえたいの知れぬ恐怖に、ゾッと立ちすくまないではいられなかった。この化物屋敷みたいな煉瓦建ては一体どこなのだ。この鼻をつく異臭はなんであろう。物いえば四方の壁にこだまするかと思われる広間には、全体何があるのだろう。
 またしても、闇の中に、北島と咲子の断末魔の、吐き気をもよおすような、醜怪《しゅうかい》な物すごい形相が、二重写しになって、まざまざと浮きあがった。おれは今、やつらの悪霊に招きよせられて、よみじの闇をさまよっているのではないかしら。彼は生れてから経験したこともない奇怪な錯覚におちいって、からだじゅうに脂汗を流していた。
 黒衣婦人の手にする懐中電燈の丸い光は、何かを探し求めるように、ソロソロと床の上を這って行った。
 敷物のない、荒い木目の床板が、一枚一枚と、円光の中を通りすぎる。やがて、ニスのはげた頑丈な机のようなものが、脚の方からだんだんと光の中へはいってくる。長い大きな机だ。おや、人間だ。人間の足だ。では、この部屋にはだれかが寝ているのだな。
 だが、いやにひからびた老人の足だぞ。それに足首に、紐《ひも》で木の札がむすびつけてあるのは、一体どういう意味なのだ。
 おや、このおやじ、寒いのにはだかで寝ているのかしら。
 円光は腿《もも》から腹、腹からあばら骨の見えすいた胸へと移動し、次には鶏の足みたいな頸から、ガックリ落ちた顎、馬鹿のようにひらいた唇、むき出した歯、黒い口、くもりガラスのような光沢《こうたく》のない眼球……死骸だ。
 潤一はさいぜんの幻と、いま円光の中に現われたものとの、無気味な符合にふるえあがった。大罪を犯して心みだれた彼は、まだその部屋がどこであるかをさとり得ないで、おれは気でも違ったのか、それとも悪夢にうなされているのかと、思いまどった。
 だが、その次に懐中電燈がうつし出した光景には、さすがの彼も、黒衣婦人の注意を忘れて、ギャッと叫ばないではいられなかった。
 これが地獄の光景でなくてなんであろう。そこには六畳敷ほどの大きさの浴槽のようなものがあって、その中に二重にも三重にも、老若男女の全裸の死体が、ウジャウジャ積みかさなっているのだ。
 血の池に亡者どもがひしめき合っている、地獄絵にそっくりの物恐ろしい有様、これがはたしてこの世の現実なのであろうか。
「潤ちゃん、弱虫ねえ。驚くことなんかありゃしないわ。これ解剖実習用の死体置場なのよ。どこの医学校にだってあるものよ」
 黒衣婦人の声が、大胆不敵に笑っていた。
 ああ、そうなのか。やっぱりこれは大学の構内だったのか。しかし、それにしても、一体全体なんの用事があって、こんな無気味な場所へこなければならなかったのだろう。さすがの不良青年も、美しい同伴者のあまりにも意表外な行動に、眼をみはらないではいられなかった。
 懐中電燈の円光は死体の山の全景を一と通りなでまわしてから、その上層に横たわっている一箇の生々しい若者の裸体の上にとまった。
 闇の中に、異様な幻燈の絵のように、一人の青年が、黄色い肌をさらして、じっと動かないでいた。
「これよ」
 黒衣婦人は、懐中電燈を若者の死体からそらさないで、ささやいた。
「この若い男は、K精神病院の施療《せりょう》患者で、きのう死んだばかりなのよ。K精神病院とこの学校とのあいだに特約が結んであるもんだから、死ぬとすぐ、死骸をここへ運ばれたの。この死体室の事務員はあたしの友だち……まあ子分といったような関係になっているのさ。だから、あたし、この若者の死骸があることを、ちゃんと知っていたっていうわけよ。どう? この死体では」
「どうって?」
 潤一はドギマギした。一体この女は何を考えているのだ。
「背恰好も肉付も、あんたとよく似ていはしなくって? 違うのは顔だけじゃなくって」
 いわれてみると、なるほど年配も、からだの大きさも、彼自身とちょうど同じほどに見えた。
(ああ、そうか。こいつをおれの身代りに立てようっていうのか。だが、この女はまあ、まるで貴婦人のような綺麗な顔をしていて、なんて大胆な恐ろしいことを思いついたものだろう)
「ね、わかったでしょう。どう? あたしの智恵は。魔法使いでしょう。だって、人間一人この世から抹殺してしまおうというんだもの、思い切った魔法でも使わなきゃ、できっこないわ。さ、その袋をお出しなさい。ちっとばかし気持がわるいけど、二人でこいつを、その袋に入れて、自動車のところまで運ぶのよ」
 潤一青年は、死骸なぞよりも、彼の救い主の黒衣婦人が恐ろしくなった。一体この女は何者だろう。お金持の有閑マダムの残虐遊戯としても、あまり御念が入りすぎているではないか。彼女は今、死体係りの事務員を彼女の子分だといった。こんな学校の中にまで子分を持っているからには、この女はよほどの大悪党にちがいない。
「潤ちゃん、なにぼんやりしてるの。さ、早く袋を」
 闇のなかから女怪の声が叱りつけた。叱りつけられると潤一青年は、一種異様の威圧を感じて、心がしびれたようになって、猫の前の鼠みたいに、ただ彼女のいうがままに動くほかはなかった。

ホテルの客

 帝都第一のKホテルにも、その夜、内外人の大舞踏会がもよおされたが、ほとんど徹宵踊りぬいた人たちも、すでに帰り去って、玄関のボーイどもが眠気をもよおしはじめた夜明け前の午前五時頃、スイング・ドアの前に一台の自動車が横づけになった。
 緑川夫人のお帰りだ。
 ボーイたちはこのぜいたくな美貌の客に少なからぬ好意を持っていたので、素早くそれとさとると、先を争うように自動車のドアに走り寄った。
 毛皮の外套に包まれた緑川夫人がおり立つと、そのあとから一人の男性の同伴者が現われた。年配は四十くらい、ピンとはねた口ひげ、三角型の濃い顎ひげ、鼈甲縁《べっこうぶち》の大きな目がね、毛皮の襟のついた厚ぼったい外套、その下から礼装用の縞ズボンがのぞいていようという、政治家めいた人物だ。
「この方お友だちです。あたしの隣の部屋あいてましたわね。あすこへ用意をさせてください」
 緑川夫人は、フロントに居合わせたホテルの支配人に声をかけた。
「ハ、あいております。どうか」
 支配人は愛想よく答えて、ボーイに支度を命じた。
 ひげの客は、だまったまま、そこにひらかれた帳簿に署名して、夫人のあとを追って、正面の廊下をはいって行った。署名は山川健作となっていた。
 部屋がきまって、めいめいに付属のバス・ルームで入浴をすませると、二人は緑川夫人の寝室に落ちあった。
 モーニングの上衣をぬいでズボンだけになった山川健作氏は、しきりと両手をこすりながら、いかめしい顔つきに似合わぬ、子供らしい声でしゃべった。
「ああ、たまらねえ。まだこの手ににおいがついているようだ。僕はあんなむごたらしいこと、生れてはじめてですよ。マダム」
「ホホホホホ、言ったわね。二人も生きた人間を殺したくせに」
「シッ、困るなあ、そんなことズバズバいわれちゃ。廊下へ聞こえやしませんか」
「大丈夫、こんな低い声が聞こえるもんですか」
「ああ、思い出してもゾッとする」山川氏はブルブルと身ぶるいをして見せて、「さっき僕のアパートで、あの死骸の顔を鉄棒でたたきつぶした時の気持って、なかったですよ。それから、あいつをエレベーターの穴へ落とした時、はるか下で、グシャッと音がしたっけ。ウウ、たまらねえ」
「弱虫ね、もうすんでしまったことは、考えっこなしよ。あんたはあのとき死んでしまったんだわ。ここにいるのは、山川健作という、れっきとした学者先生じゃないの。しっかりしなきゃだめよ」
「しかし大丈夫ですか。大学の死体が紛失したことがバレやしませんか」
「なにいってるのよ。僕がそれに気がつかないとでも思っているのかい。あすこの事務員は、僕の手下だといったじゃないか。僕の子分がそんなヘマをする気づかいがあるもんか。今、学校は休みで、先生も学生もいやしない。係りの事務員が帳簿をちょっとごまかしておけば、小使いなんか一々死骸の顔をおぼえているわけじゃなし、あんなにたくさんの中から一つくらいなくなったって、当《とう》の係員のほかには気づく者はありゃしないよ」
「じゃあ、その事務員に、今夜のことを知らせておかなければいけませんね」
「ウン、それは朝になったら、ちょっと電話をかけさえすればいいんだよ……ところでねえ、潤ちゃん、あんたに聞いてもらいたいことがあるのよ。まあ、ここへおかけなさいな」
 緑川夫人は、その時、はでな友禅染めの振袖の寝間着を着て、ベッドの上に腰かけていたのだが、その横のシーツを指さして、山川氏の潤ちゃんをさしまねいた。
「僕、このうるさいつけひげと目がね、取っちゃってもいいですか」
「ええ、いいわ。ドアに鍵がかけてあるんだから、大丈夫」
 そして、二人はまるで恋人のように、ベッドにならんで腰かけて、話しはじめた。
「潤ちゃん、あんたは死んでしまったのよ。それがどういうことだかわかる? つまり、今ここにいる、あんたという新らしい人間は、あたしが産んであげたも同じことよ。だから、あんたは、あたしのどんな命令にだってそむくことができないのよ」
「もしそむいたら?」
「殺してしまうまでよ。あんた、あたしが恐ろしい魔法使いってこと、知りすぎるほど知ってるわね。それに、山川健作なんて人間は、あたしのお人形さんも同じことで、この世に籍がないのだから、突然消えてなくなったところで、だれも文句をいうものはありやしないわ。警察だってどうもできやしないわ。あたし、きょうからあんたという、腕っぷしの強いお人形さんを手に入れたのよ、お人形さんていう意味は、つまり奴隷、ね、奴隷よ」
 潤一青年は、この妖魔にみいられてしまっていたので、そんなことをいわれても、少しも不快を感じなかった。不快を感じるどころか、いうにいわれぬ甘いなつかしい気持になっていた。
「ええ、僕は甘んじて女王さまの奴隷になります。どんないやしい仕事でもします。あなたの靴の底にだって接吻します。そのかわり、あなたの産んだ児を見捨てないでください。ねえ、見捨てないで。」
 彼は、緑川夫人の友禅模様の膝に手をかけて、甘えながら、だんだん泣き声になって行った。黒天使は、やさしくほほえんで、潤一の広い肩に手を廻して、子供をでもあやすように、調子を取って、軽く叩いてやった。夫人の膝に熱いしずくがポタポタと落ちるのが、着物を通して感じられた。
「ハハハハハ、滑稽《こっけい》だわね。二人とも、いやにセンチになっちゃったわね。よしましょう。それより大事な話があるのよ」
 夫人は手をはなして、
「あんた、あたしを何者だと思う? わからないでしょう」
「なんだっていいんです。たとえあなたが女泥棒だって、人殺しだってかまいません。僕はあなたの奴隷です」
「ホホホホホ、あてちゃったわね。その通りよ、あたしは女泥棒。それから、人殺しもしたかもしれないわ」
「え、あなたが?」
「ホホホホホ、やっぱりびっくりしたでしょ。でも、あんたには何をいったって、命《いのち》をあずかっているんだから大丈夫。まさか逃げ出しゃしないわね。それとも逃げ出す?」
「僕はあなたの奴隷です」
 彼女の膝にかけている男の指に、ギュッと力がこもった。
「まあ、可愛いことをいうわね。きょうからあんた、あたしの、一の子分よ。ずいぶん働いてもらわなくちゃならないわ。ところで、あたしがなぜ、こんなホテルなんかに泊っていると思う? 四、五日前から、緑川夫人という名で、この部屋を借りているのよ。それはね、ねらった鳥が同じホテルに滞在しているからなの。それが大へんな大物で、あたし一人じゃ、ちょっと心細かったところへ、うまいぐあいにあんたがきてくれて心丈夫だわ」
「金持ちですか」
「ああ、金持ちも金持ちだけれど、あたしの目的はお金ではないの。この世の美しいものという美しいものを、すっかり集めてみたいのがあたしの念願なのよ。宝石や美術品や美しい人や……」
「え、人間までも?」
「そうよ。美しい人間は、美術品以上だわ。このホテルにいる鳥っていうのはね、お父さんに連れられた、それはそれは美しい大阪のいとはんなの」
「じゃ、そのお嬢さんを盗もうというのですか」
 ことごとに意外な黒天使の言葉に、潤一青年は、またしてもめんくらわなければならなかった。
「そうなの。でも、ただの少女|誘拐《ゆうかい》ともちがうのよ。その娘さんを種に、お父さんの持っている日本一のダイヤモンドを頂戴しようってわけなの。お父さんていうのは、大阪の大きな宝石商なのよ」
「じゃ、あの岩瀬商会じゃありませんか」
「よく知ってるわね。その岩瀬庄兵衛さんがここに泊っているの。ところが少し面倒なのは、先方には明智小五郎っていう私立探偵がついていることです」
「ああ、明智小五郎が」
「ちょっと手ごわい相手でしょう。幸い、あいつはあたしを少しも知らないからいいようなものの、明智って、虫のすかないやつだわ」
「どうして、私立探偵なんかやとったのでしょう。先方は感づいてでもいるのですか」
「あたしが感づかせたのさ。あたしはね、潤ちゃん、不意打ちなんて卑怯なまねはしたくないのよ。だから、いつだって、予告なしに泥棒をしたことはないわ。ちゃんと予告して、先方に充分警戒させておいて、対等に戦うのでなくっちゃ、おもしろくない。物をとるということよりも、その戦いに値打ちがあるんだもの」
「じゃ、こんども予告をしたのですね」
「ええ、大阪でちゃんと予告してあるのよ。ああ、なんだか胸がドキドキするようだわ。明智小五郎なら相手にとって不足はない。あいつと一騎打ちの勝負をするのかと思うと、あたし愉快だわ。ね、潤ちゃん、すばらしいとは思わない?」
 彼女はわれとわが言葉にだんだん昂奮しながら、潤一青年の手をとって、彼女の感情のまにまに、それをギュッと握りしめたり、気でもちがったようにうち振ったりするのであった。

女魔術師

 一夜のあいだに、潤一青年の山川健作氏はお芝居がすっかり板について、翌朝身じまいをおわった時には、ロイド目がねも付けひげも似つかわしく、医学博士とでもいった人物になりすましていた。
 食堂で緑川夫人とさし向かいにオートミールをすすりながらの会話にも、身のこなしにも、少しもへまはしなかった。
 食事をすませて部屋に帰ると、ボーイが待ち受けていて、
「先生、ただ今お荷物がとどきましたが、こちらへ運んでもよろしゅうございますか」
 とたずねた。潤一青年は、先生などと呼ばれたのは生れてはじめてであったが、一所懸命落ちつきはらって、声さえ重々しく、
「ああ、そうしてくれたまえ」
 と答えた。けさ、彼の荷物と称して、大きなトランクがとどけられることは、ゆうべの打ち合わせで、ちゃんと呑みこんでいたのだ。
 やがて、ボーイとポーターが、二人がかりで、大型の木枠つきのトランクを部屋の中へ持ちこんできた。
「だんだんお芝居がうまくなるわね。それならばもう大丈夫だわ。明智小五郎だって、見破れやしないわ」
 ボーイたちが立ち去るのを見すまして、隣室の緑川夫人がはいってきて、新弟子の手なみをほめた。
「ウフ、僕だって、まんざらでもないでしょう……それはそうと、このべらぼうに大きなトランクには、一体なにがはいっているんですね」
 山川氏は、まだトランクの用途を教えられていなかったのだ。
「ここに鍵があるから、あけてごらんなさい」
 いかめしいひげの子分は、その鍵を受け取りながら、小首をかしげた。
「僕のお召しかえがはいっているんでしょう。山川健作先生ともあろうものが、着のみ着のままじゃ変だからね」
「フフ、そうかもしれないわ」
 そこで、鍵を廻して、蓋《ふた》をひらいてみると、中には、いくえにも厚ぼったくボロ布で包んだものがギッシリつまっていた。
「おや、なんですい、こりゃあ?」
 山川氏は、あてがはずれたようにつぶやいて、その包みの一つを、ソッとひらいてみた。
「なあんだ、石ころじゃありませんか。大事そうに布にくるんだりして、ほかのもみんな石ころなんですか」
「そうよ、お召しかえでなくってお気の毒さま。みんな石ころなの。少しトランクに重みをつける必要があったものだからね」
「重みですって?」
「ああ、ちょうど人間一人の重味をね。石ころをつめるなんて気がきかないようだけれど、おぼえて、おきなさい、これだとあとの始末が楽なのよ。石ころは窓のそとの地面へほうり出しておけばいいし、ボロ布はベッドのクッションと敷蒲団のあいだへ敷きこんでしまえば、トランクをからっぽにしても、あとになんにも残らないっていうわけさ。ここいらが魔法使いのコツだわ」
「へええ、なるほどねえ。だが、トランクをからっぽにして、何を入れようっていうんです」
「ホホホホホ、天勝《てんかつ》だって、トランクに入れるものはたいていきまっているじゃないの。まあいいから、石ころの始末を手伝いなさいよ」
 彼らの部屋はホテルの奥まった階下にあったので、窓のそとは人目のない狭い中庭になっていて、そこに大つぶな砂利がしいてあった。石ころを投げ出すにはおあつらえ向きだ。二人は急いで石ころをほうり出し、ボロ布の始末をした。
「さあ、これですっかりからっぽになってしまった。じゃあ、これから魔法のトランクの使いみちを教えてあげましょうか」
 緑川夫人は、面くらっている潤ちゃんを、おかしそうに眺めたが、手早くドアに鍵をかけ、窓のブラインドをおろして、そとからすき見のできないようにしておいて、いきなり黒ずくめのドレスをぬぎはじめた。
「マダム、へんだね。昼日中、例の踊りをはじめようってわけじゃないでしょうね」
「ホホホホホ、びっくりしてるわね」
 夫人は笑いながら、手を休めないで、一枚一枚と衣服を取り去って行った。彼女の奇妙な病気が起こったのだ。エキジビショニズムがはじまったのだ。
 全裸の美女とさし向かいでは、いかな不良青年も、まっ赤になって、もじもじしないではいられなかった。そこには、このましい曲線にふちどられた、輝くばかりに美しい桃色の肉塊が、ギョッとするほど大胆なポーズで立ちはだかっていたではないか。
 見まいとしても、視線がその方に行った。そして夫人の眼とぶっつかると、その度ごとに、彼はまたしても一そう赤面した。女王は奴隷の前に、どのような姿をさらそうとも、少しも悪びれも、恥かしがりもしなかった。あまりの刺戟にたえかね、脂汗を流して悲鳴をあげるのは、いつも奴隷の方なのだ。
「まあ、いやにもじもじするわね。はだかの人間がそんなに珍らしいの」
 彼女はあらゆる曲線と、あらゆる深い陰影とを、あからさまに見せびらかして、トランクの縁をまたぎ、その中へまるで胎内の赤ん坊みたいに手足をちぢめて、スッポリとはまりこんでしまった。
「というわけさ。これがボクの手品の種あかしなんだよ。どう? このかっこうは」
 トランクの中に丸まった肉塊が、男と女とちゃんぽんの言葉づかいで呼びかけた。
 まげた脚の膝頭が、ほとんど乳房にくっつくほどで、腰部の皮膚がはりきって、お尻が異様に飛び出して見えた。後頭部に組み合わせた両手が、髪の毛をみだし、わきの下が無残に露出していた。なにかしら畸形《きけい》な、丸々とした、非常に美しい桃色の生きものであった。
 潤ちゃんの山川氏は、だんだん大胆になりながら、トランクの上に及び腰になって、なやましげに眼の下の生きものに見入った。
「マダム、トランク詰めの美人ってわけですか」
「ホホホホホ、まあ、そうよ。このトランクには、そとからはわからないように、方々に小さい息ぬきの穴があけてあるのよ。だから、こうして蓋をしめてしまっても、窒息するような心配はないんだわ」
 いうかと思うと、彼女はバタンとトランクの蓋をしめたが、そのあおりの生暖かい風が熟しきった女体のかおりを含んで、上気した青年の顔をなでた。
 蓋をしめてしまえば、それはいかめしく角ばった一箇の黒い箱にすぎなかった。その中になまめかしくふくよかな桃色の肉塊がひそんでいようなどとは、どうしても想像できないのだ。古来手品師たちが、不細工なトランクと美しい女体とのきわ立った取り合わせを、好んで用いる理由がここにあった。
「どう? これならだれも、人間がはいっているなんて疑いっこないでしょう」
 夫人がトランクの蓋を細目にあけて、まるで貝のなかから現われたヴィーナスのように、美しくほほえみながら、同意を求めた。
「ええ……すると、つまり、あの宝石屋さんの娘さんを、このトランク詰めにして誘拐しようってわけですかい」
「そうよ。もちろんよ。やっと察しがついたの? あたしはただちょっと見本をごらんに入れたっていうわけなのさ」
 しばらくして服装をととのえた緑川夫人が、山川氏に、彼女の大胆きわまる誘拐計画を語り聞かせていた。
「あの娘さんを、今のようにトランクにつめこむ仕事はあたしの受け持ちで、それにはちゃんと手だてもあるし、麻酔剤の用意もできているの。そのトランクをここから運び出すのが、あんたの役目、第一回の腕試しよ。
 今晩、あんたは九時二十分の下り列車に乗りこむていにして、前もって名古屋までの切符を買わせておいて、トランクと一しょにホテルを出発して、トランクは手荷物としてあずけさせ、ホテルのポーターに見送らせて汽車に乗るのよ。つまり、あんたは名古屋へ行ったものと思いこませて、その実、次のS駅で途中下車してしまうんだわ。わかって? むろんトランクも、車掌にたのんで、急用を思いだしたとかなんとか言って、S駅でおろさせるのよ。ちょっと骨の折れる仕事だけれど、あんたならヘマはしないわね。
 そして、S駅から、またトランクといっしょに自動車に乗って、東京に引きかえし、こんどはMホテルへ乗りつけるの。そこで一ばん上等の部屋をえらんで、どっかのお金持ちっていうような顔をして、威張って泊り込んでいればいいのよ。あたしも、あすはここを引きはらって、Mホテルであんたと落ち合うつもりなんだから。どう? この計画は」
「ウン、おもしろいにはおもしろいですね。だが、そんな人をくったまねをして大丈夫かしら。僕一人じゃ、ちょっとばかり心細いな」
「ホホホホホ、人殺しまでしたくせに、まるでお坊っちゃんみたいに物おじをして見せるわね。大丈夫よ。悪事というのはね、コソコソしないで、思い切って大っぴらにやっつけるのが、一ばん安全なんだわ。それに、万一バレたら、荷物をほうり出してズラカっちまえばいいじゃないの。人殺しにくらべればなんでもありゃしないわ」
「だがね、マダムも一しょに行っちゃいけないのですかい」
「あたしは、例の明智小五郎と四つに組んでなけりゃいけないのよ。あんたが先方へ着くまでに、あいつから眼をはなしたら、どんなことになるかわかりゃしない。あたしは邪魔者の探偵さんの引きとめ役なのさ。この方がトランクをはこぶより、ずっとむずかしいかもしれないわ」
「ああ、そうか。その方が僕も安心というもんですね。だが……あすの朝はきっとMホテルへ来てくれるでしょうね。もしそのあいだに、娘さんが眼をさまして、トランクの中であばれ出しでもしたら、眼もあてられないからね」
「まあ、この人はこまかいことまで気にやんでいるのね。そこに抜かりがあるものかね。娘には猿ぐつわをかませた上、手足を厳重にしばっておくのよ。眠り薬がさめたところで、声をたてることはもちろん、身動きだってできやしないわ」
「ウフ、僕はきょうは頭がどうかしているんだね。それというのも、マダムがあんなことをして見せるからですよ。こんどから、あれだけはかんべんしてもらいたいね。僕は若いんですぜ。まだ胸がドキドキしている、ハハハハハ。ところで、Mホテルで落ちあったあとは、どういうことになるんですい?」
「それから先は、秘中の秘よ。子分はそんなこと聞くもんじゃなくってよ。ただおかしらの命令に、だまって従ってればいいのよ」
 かようにして、令嬢誘拐の手はずは、落ちもなく定められたのである。

女賊と名探偵

 その晩、ホテルの広々とした談話室は、夕食後のひとときを煙草や雑談にすごす人たちでにぎわっていた。部屋の一隅にそなえつけたラジオが夜のニュースをつぶやいていた。クッションに深々ともたれて、顔の前に夕刊を大きくひろげている紳士が、あちらにもこちらにも見えた。円卓をかこんだ外国人の一団の中からは、アメリカ人らしい婦人の声がかん高く聞こえていた。
 それらの客の中に、岩瀬庄兵衛氏とお嬢さんの早苗さんの姿を見わけることができた。黄色っぽい派手な縞お召《めし》の着物に、金糸《きんし》の光る帯をしめ、オレンジ色の羽織をきた早苗さんの、年にしては大柄な姿は、和服の少ないこの広間では非常に眼立って見えた。服装ばかりではない。大阪風におっとりとした、抜けるほど色白な顔に、近眼らしく、ふちなし目がねをかけているのが、ひときわ人眼をひかないではおかなかった。
 お父さんの岩瀬氏は、半白《はんぱく》の坊主頭に、あから顔にひげのない、大商人らしい恰幅《かっぷく》の人物だが、彼はまるで、お嬢さんの見張り番ででもあるように、彼女の一挙一動を見守りながら、そのあとをつけ廻していた。
 こんどの旅行は、商用のほかに、この都の或る名家と縁談がまとまりかけているので、引き合わせのために早苗さんを同伴したのだが、折も折、ちょうど出発の半月ほど前から、岩瀬氏は、ほとんど毎日のように配達される、執念ぶかい犯罪予告の手紙になやまされていたのだ。
「お嬢さんの身辺を警戒なさい。お嬢さんを誘拐しようとたくらんでいる、恐ろしい悪魔がいます」
 そういう意味が、一度一度ちがった文句、ちがった筆蹟で、さも恐ろしく書きしるしてあった。手紙の数が増すにしたがって、誘拐の日が一日一日とせまってくるように感じられた。
 はじめのうちは、だれかのいたずらだろうと、気にもかけないでいたが、たびかさなるにつれて、だんだん気味がわるくなって、ついには警察にもとどけた。だが、いかな警察力も、このえたいの知れぬ通信文の発信者をつきとめることはできなかった。手紙にはむろん、差出人の名はしるされていなかったし、消印も或いは大阪市内、或いは京都、或いは東京と、その都度ちがっていた。
 そういう際ではあったけれど、婚家との約束を破るのもはばかられたし、いやな手紙の舞いこむ自宅を、しばらく離れてみるのも好ましく思われたので、岩瀬氏は意を決して旅に出ることにした。
 そのかわりには、用意周到にも、万々一のことがあってはと、かつて店の盗難事件を依頼してその手並みのほどを知っている、私立探偵の明智小五郎に、令嬢の保護をたのむことにした。探偵はあまり乗り気でもなかったけれど、岩瀬氏のたっての頼みをいなみかねて、彼らの滞在中、隣室に泊りこんで、この奇妙な盗難予防の任務につくことになった。
 その明智小五郎は、細長いからだを黒の背広に包んで、同じ広間の別の一隅のソファに腰かけ、やっぱり黒ずくめの洋装の一人の美しい婦人と、何か低声に語り合っていた。
「奥さん、あなたはどうして、この事件に、そんな深い興味をお持ちなんですか」
 探偵が、じっと相手の眼をのぞきこんでたずねた。
「わたくし、探偵小説の愛読者ですの。岩瀬さんのお嬢さんにそのことを伺ってからというものは、まるで小説みたいな出来事に、すっかり引きつけられてしまいました。それに有名な明智さんにも御懇意になれて、わたくし、なんですか、自分まで小説の中の人物にでもなったような気がしていますのよ」
 黒衣の婦人が答えた。この黒衣婦人こそ、ほかならぬわれわれの主人公「黒トカゲ」であることを、読者はすでに察していられるにちがいない。
 宝石狂の彼女は、顧客として岩瀬氏と知り合いの間柄であったので、このホテルで落ちあってからは、一そう親しみを増し、彼女のおどろくべき社交術は、早くも早苗さんを虜《とりこ》にして、うちわの秘密までも打ちあけられるほどの仲になっていたのだ。
「しかし、奥さん、この世の現実は、そんなに小説的なものじゃありませんよ。こんどのことも、僕は不良少年かなんかの、いたずらではないかと思っているほどです」
 探偵はいかにも気乗りうすに見えた。
「でも、あなたは大へん熱心に探偵の仕事をしていらっしゃるじゃありませんか。夜中に廊下をお歩きなすったり、ホテルのボーイたちにいろいろなことをおたずねなすったり、わたくしよく存じていますわ」
「あなたは、そんなことまで、注意していらっしゃるのですか、隅におけませんね」
 明智は皮肉に言ってジロジロと夫人の美しい顔を眺めた。
「わたくし、これはいたずらやなんかじゃ、決してないと思います。第六感とやらで、そんなふうに感じますの。あなたもよほど気をおつけなさらないといけませんわ」
 夫人も負けずに、探偵を見返しながら、意味ありげに応酬した。
「いや、ありがとう。しかし御安心ください。僕がついているからにはお嬢さんは安全です。どんな兇賊でも、僕の眼をかすめることは全く不可能です」
「ええ、それは、あなたのお力はよく存じていますわ。でも、あの、こんどだけは、なんだか別なように思われてなりませんの。相手が飛びはなれた魔力を持っている、恐ろしいやつだというような……」
 ああ、なんという大胆不敵の女であろう。彼女は一代の名探偵を前にして、彼女自身を讃美しているのだ。
「ハハハハハ、奥さんは、仮想の賊を大へんごひいきのようですね。一つ賭けをしましょうか」
 明智は冗談らしく、奇妙な提案をした。
「まあ、賭けでございますって? すてきですわ、明智さんと賭けをするなんて。わたくし、この一ばん大切にしている首飾りを賭けましょうか」
「ハハハハハ、奥さんは本気のようですね。じゃあ、もし僕が失敗してお嬢さんが誘拐されるようなことがあれば、そうですね、僕は何を賭けましょうか」
「探偵という職業をお賭けになりませんこと? そうすれば、わたくし、持っているかぎりの宝石類を、全部賭けてもいいと思いますわ」
 それは有閑マダムにありがちな、突拍子もない気まぐれのようにも取れば取れる言い方であった。だがその裏に、名探偵に対する、女賊のもえるような闘志がかくされていたことを、明智はさとり得たであろうか。
「おもしろいですね。つまり、僕が負けたら廃業してしまえとおっしゃるのでしょう。女のあなたが、命から二番目の宝石をすっかり投げ出していらっしゃるのに、男の僕たるもの、職業ぐらいはなんでもないことですね」
 明智も負けていなかった。
「ホホホホホ、ではお約束しましてよ。わたくし、明智さんを廃業させてみとうございますわ」
「ええ、約束しました。僕もあなたのおびただしい宝石がころがり込んでくるのを楽しみにしていましょうよ。ハハハハハ」
 そして、冗談がいつのまにか真剣らしいものになってしまった。ちょうど、その途方もない相談が成り立ったところへ、それとも知らぬ、当《とう》の早苗さんが近づいて、にこやかに声をかけた。
「まあ、お二人で、何をヒソヒソお話しなすってますの。あたしもお仲間に入れてくださらない」
 彼女はさも快活らしくよそおってはいたけれど、その顔色にどこかしら不安の影がただようのをかくすことはできなかった。
「あら、お嬢さん、さあ、ここへお掛けなさい。今ね、明智さんが退屈でしようがないって、こぼしていらっしゃいましたのよ。だって、あんなこと、だれかのいたずらにきまっているんですものね」
 緑川夫人は、早苗さんをいたわるように、心にもない気安めをいった。
 そこへ、岩瀬氏もやってきて、一座は四人になり、みんなが気をそろえて事件にはふれず、さしさわりのない世間話をはじめたが、自然の勢いとして、岩瀬氏は明智探偵、緑川夫人は早苗さん、男は男、女は女と、会話が二つにわかれて行った。

一人二役

 やがて、女同士の一と組は立ちあがって、話しこんでいる男たちをあとに残し、広間の椅子のあいだを、散歩でもするように肩を並べて、ソロソロと歩きはじめた。まっ黒な絹のドレスとオレンジ色の羽織とが、きわ立った対照をなしているほかには、二人は背かっこうも、髪の形も、年頃までも、ほとんど同じに見えた。美人に年齢がないのであろうか、三十を越した緑川夫人は、ともすれば、少女のようにあどけなく、若々しく見えることがあった。
 二人は、どちらから誘うともなく、いつしか広間をすべり出て、廊下を階段の方へ歩いていた。
「お嬢さん、ちょっとあたしの部屋へお寄りになりません? きのうお話ししたお人形を、お見せしますわ」
「まあ、ここにもってきていらっしゃいますの。拝見したいわ」
「いつも、離したことがありませんの。可愛いあたしの奴隷ですもの」
 ああ、緑川夫人のいわゆる人形とは、いったい何者であろう。早苗さんは少しも気づかなかったけれど、「可愛い奴隷」なんて実にへんてこな形容ではないか。「奴隷」といえば、読者はただちに、潤ちゃんの山川健作氏が、やっぱり夫人の奴隷であったことを思い出しはしないだろうか。
 緑川夫人の部屋は階下に、早苗さんたちの部屋は二階にあった。二人は階段の登り口でしばらくためらっていたが、とうとう夫人の部屋へ行くことになって、そのまま廊下を進んで行った。
「さあ、おはいりなさい」
 部屋につくと、夫人はドアをひらいて、早苗さんをうながした。
「あら、ここちがってやしません? あなたのお部屋は、二十三号じゃありませんの」
 まったくその通りであった。ドアの上には二十四の番号が見えている。つまりそこは、夫人の隣室の山川健作氏の部屋であった。
 あの人殺しの拳闘家は、早く夕食をすませると、逃げるようにこの部屋にもどって、身をひそめて、その時のくるのを待っているはずではないか。そこには、麻酔剤をしみこませたガーゼが、棺桶同然のトランクが、犠牲者を待ちかまえているはずではないか。
 早苗さんが躊躇《ちゅうちょ》したのも無理ではない。虫が知らせたのだ。次の一刹那《いちせつな》に起こるであろう地獄の光景を、潜在意識が敏感にも告げ知らせたのだ。
 だが、緑川夫人は素知らぬていで、
「いいえ、ちがやしません。ここがあたしの部屋ですわ。さあ、早くおはいりなさいな」
 といいながら、早苗さんの肩を抱くようにして、ドアの中につれこんでしまった。
 二人の姿が消えると、ドアはまたピッタリとしまった。しまったばかりか、異様なことには、カチカチと鍵を廻す音さえした。
 と同時に、ドアの向こう側に、何かでおさえつけられるような、かすかではあるが実に悲痛なうめき声が聞こえた。
 一瞬間、部屋の中は全くからっぽになったように静まりかえったが、やがて、ボソボソと人のささやく声、いそがしく歩き廻る足音、何かのぶつかる音などが、やや五分間ほどもつづいていたが、それも静まると、ふたたび鍵を廻すけはいがして、ドアが細目にひらき、目がねをかけた白い顔が、ソッと廊下をのぞいた。
 だれもいないのを見定めた上、やがて、全身を部屋のそとへ現わしたのを見ると、それは意外にも緑川夫人ではなくて、早苗さんであった。もうトランク詰めになってしまったとばかりに思っていた早苗さんであった。
 いや、そうではない。いかにも早苗さんと同じ髪形、同じ目がね、同じ着物、同じ羽織ではあったけれど、よく見れば、どこかしら違ったところがあった。胸が少し張りすぎていた。背も心持ち高かった。それよりも顔が……実にたくみなメーク・アップではあったが、そしてまた髪の形と目がねとで、そのお化粧が一そうまことしやかに見えたが、どんなにこしらえても人の顔がかわるものではない。それは早苗さんとそっくりのいでたちをした緑川夫人にすぎなかった。それにしても、これだけの変装をわずか五分間にやってのけた早業は、さすがに魔術師と自称する彼女であった。
 では、可哀そうな早苗さんはどうしたのか、もう疑う余地はない。女賊の誘拐計画は順調に進行しているのだ。早苗さんはトランクに押しこめられてしまったのだ。緑川夫人がその服装をすっかり拝借しているところを見ると、彼女は、けさ夫人が見本を示した通り、すっ裸にされ、猿ぐつわをはめられ、手足をしばられて、みじめにも、トランクの中に折れまがっているのにちがいない。
「では、しっかりたのむわね」
 早苗さんに化けた緑川夫人が、ドアをしめながらささやくと、中から太い男の声が、
「ええ、大丈夫です」
 と答えた。潤ちゃんの山川健作氏だ。
 夫人は何かしらかさばった風呂敷包みを小脇にかかえている。彼女はそれをかかえたまま人眼をさけながら、階段をのぼった。岩瀬氏の部屋へたどりつき、ソッとのぞいてみると、予期した通り岩瀬氏はまだ帰っていない。彼は階下の広間で明智小五郎と話しこんでいたのだ。
 そこはソファや肘掛椅子や書きもの机などをならべた居間と、寝室と、バス・ルームの三部屋つづきになっていたが、夫人はその居間にはいると、書きもの机の引出しをあけて、岩瀬氏常用のカルモチンの小箱を取り出し、中の錠剤を抜き取って、用意してきた別の錠剤とすりかえて、元通り引出しにおさめた。
 それから、次の間の寝室にはいり、壁の明かるい電燈を消して、小さなスタンドだけにしたうえで、ボーイ室へのベルを押した。
 間もなくノックの音がして、一人のボーイが居間の方へはいってきた。
「お呼びでございましたか」
「ええ、あの、下の広間にお父さまがいらっしゃるからね。もうおやすみになりませんかって、呼んでくださいませんか」
 夫人は、寝室のドアを細めにあけて、顔は影に、着物だけが居間の電燈に照らされるような姿勢で、たくみに早苗さんの声をまねて頼んだ。
 ボーイが心得て立ち去ると、やがて、あわただしい足音がして、岩瀬氏がはいってきて、
「お前一人だったのかい。緑川さんと一しょじゃなかったのかい」
 と叱るようにいった。
 夫人はやっぱり暗い寝室から着物だけを見せるようにして、一そうたくみに早苗さんの口調をまねて、小さい声で答えた。
「ええ、あたし気分がわるくなったものですから、さっき階段のところで、あの方とお別れして一人で帰ってきましたの。あたしもうやすみますわ。お父さまもおやすみにならない」
「困るねえお前は、一人ぼっちになっちゃいけないって、あれほど言いきかしてあるじゃないか。もしものことがあったらどうするんだ」
 父は寝室の声を娘と信じきって、居間の安楽椅子にかけたまま、小言をいっている。
「ええ、ですから、あたし、お父さまをお呼びしたんだわ」
 寝室から、あどけない声が答える。
 そこへ、明智探偵が、岩瀬氏のあとを追ってはいってきた。
「お嬢さんはおやすみですか」
「ええ、今着がえをしているようです。なんだか気分がわるいと言いましてね」
「じゃあ僕も部屋へ引き取りましょう。では」
 明智が隣室へ立ち去ると、岩瀬氏はドアに鍵をかけておいて、しばらく手紙を書いていたが、やがていつもの通り引出しのカルモチンを取り出し、卓上の水瓶の水でそれをのんで、寝室へはいってきた。
「早苗、どうだい、気分は」
 そう言いながら、彼は隅のベッドの方へ廻って来そうにするので、早苗になりすました夫人は、毛布を顎までかぶって、顔を電燈の蔭にそむけて、うしろ向きのまま、さも不機嫌らしく答えた。
「ええ、いいのよ。もういいのよ。あたしねむいんですから」
「ハハハハハ、お前、なんだかきょうはへんだね。おこっているのかね」
 だが、岩瀬氏は、深くも疑わず、不機嫌な娘には逆らわぬようにして、小声で謡などうなりながら、寝間着に着かえると、ベッドについた。
 夫人がすりかえておいた、強い睡眠剤の効き目はてきめんであった。彼は枕についたかと思うと、おそいかかる睡魔に、何を考える暇もなく、たちまちグッスリと寝入ってしまった。
 それから一時間あまりたった午後十時頃、自室で読書をしていた明智小五郎は、隣室のドアとおぼしきあたりに聞こえる、あわただしいノックの音におどろかされて、廊下に出て見ると、ボーイが一通の電報を手にして、しきりと岩瀬氏を呼び起こしていた。
「そんなに呼んでも返事がないのはへんだね」
 明智はふと不安を感じて、ボーイと一しょに、他室の迷惑もかまわず、はげしくドアをたたいた。
 たたきつづけていると、強い睡眠剤の眠りも、さすがに妨げられたのか、部屋の中から、かすかに岩瀬氏の寝ぼけ声が聞こえた。
「なんだ、なんだ、そうぞうしい」
「ちょっとあけてください。電報がきたんです」
 明智が叫ぶと、やっとカチカチと鍵の音がして、ドアがひらかれた。
 寝間着姿の岩瀬氏は、さもねむくてたまらないというように、眼をこすりながら、電報をひらいて、ぼんやりと眺めていたが、
「畜生、また、いたずらだ。こんなもので、人の寝入りばなを起こすなんて」
 と舌打ちをして、それを明智に渡した。
「コンヤジュウニジヲチュウイセヨ」
 文面は簡単だけれど、その意味は明瞭であった。「今夜十二時に早苗さんの誘拐が行なわれるぞ」という例のおどし文句なのだ。
「お嬢さん別状ありませんか」
 明智はちょっと真剣な調子になってたずねた。
「大丈夫、大丈夫、早苗はちゃんとわしの隣に寝ています」
 岩瀬氏はヨロヨロと寝室のドアに近づいて、そこから隅のベッドを見ながら、安心したように言った。
 明智もそのうしろから、ソッとのぞいて見たが、早苗さんは向こうをむいて、スヤスヤと眠っていた。
「早苗はこのごろ、わしと同じように毎晩カルモチンを呑むので、よく寝入ってます。それに、今夜は気分がすぐれぬといっていましたから、かわいそうです、起こさないでおきましょう」
「窓はしめてありますか」
「それも大丈夫、昼間から、すっかり掛け金がかけてあります」
 岩瀬氏はそういうと、もうベッドの上に這いあがっていた。
「明智さん、恐縮だが、入り口をしめて、鍵はあんたが預かっておいてくださらんか」
 彼はもう、眠いのが一ぱいで、鍵をかけるのも面倒なのだ。
「いや、それよりも、僕はしばらくこの部屋にいましょう。寝室のドアはあけたままにしておいてください。そうすれば、あなたがおやすみになっても、窓のがわはここから見えますから、もしだれか窓を破って侵入してきても、すぐにわかります。窓さえ注意していれば、ほかに出入り口はないのですから」
 明智は一度引き受けた事件には、あくまで忠実であった。彼はそのまま居間の方の椅子に腰をおろして、煙草に火をつけて、じっと寝室を監視していた。
 三十分ほど経過したが、何事も起こらない。ときどき立って行って寝室をのぞいて見たが、早苗さんは同じ姿勢でねむりつづけている。岩瀬氏も高いびきだ。
「あら、まだ起きていらっしゃいましたの。ボーイが、さっき妙な電報がきたといっていましたので、気がかりになって、あがってきたのですけど」
 声におどろいて振り向くと、半ばひらいたままになっていたドアのそとに、緑川夫人が立っていた。
「ああ、奥さんですか。電報がきたにはきたんですが、こうしていれば大丈夫ですよ。僕はばかばかしい見張り役です」
「では、やっぱりこのホテルへまで、おどかしの電報がきたんですか」
 黒衣の婦人は言いながら、ドアをひらいて部屋の中へはいってきた。
 読者諸君はもしかしたら、「作者はとんでもない間違いを書いている。緑川夫人は早苗に化けて、岩瀬氏の隣のベッドに寝ているではないか、その同じ緑川夫人が、廊下からはいってくるなんて、まったくつじつまの合わぬ話だ」と抗議を持ち出されるかもしれぬ。
 だが作者は決して間違ってはいない。両方ともほんとうなのだ。そして、緑川夫人はこの世にたった一人しかいないのだ。それがどういう意味であるかは、物語りが進むにしたがって明らかになって行くであろう。

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原文 青空文庫より引用
入力: sogo
校正: 大久保ゆう

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